「次は邪馬台国の謎に挑んでみればどうか」
と提案してくれた。
これを聞いたとき、私の心はほとんど動かなかった。その理由は二つある。
まずは、これまで読んだ邪馬台国に関する多数の本は、そのいずれもが納得のいく結論を出していないことである。何年にもわたって専門に研究されてきた学者や研究家たちでさえ、十分な説得力をもってその謎を解明しているとはいいがたい。そこにはもはや文献研究による議論が行き詰まったある種の閉塞感さえ漂っている。そのような難解きわまる謎に、たんに歴史に興味があるというだけの私が挑むことなど、考えただけでも身の震えを覚えたからである。
いま一つの理由は、邪馬台国の謎解きというものが、これまで取り組んできた拙著の内容とあまりにかけ離れているからである。たとえばゴッホの生涯を書いたとき、あらゆる資料から可能な限り正確にゴッホの生き様を捉えて再現しようと努めた。徹底的に主観を排除し、客観的なゴッホ像を描くことに専心して、ほぼ実像といっていいゴッホの評伝を仕上げることができた。六百六十二通におよぶゴッホ自身の書簡をはじめとする膨大な資料が、それを可能にさせた。ところが、邪馬台国の謎解きの場合は、それとはまったく事情が異なり、なによりも、残された史料があまりに少ない。だから、邪馬台国を扱うためには、そのような乏しい史料を基礎にして、大胆な解釈と仮説、想像が必要で、そこでは思い切った主観の展開が要求される。邪馬台国に関するこれまでのすべての書は、著者自身が意識していたかどうかはべつにして、希少な材料を駆使して確固とした理論的裏づけを行おうとするのだが、最後は決定的な材料不足に陥って、独自の大胆な解釈や飛躍した想像を構築し、それぞれの主観を思い切って打ち出した結論を導き出している。このようなアプローチ手法は、これまで私が採ってきたそれとはまったく異なるものであり、むしろある種の推理作品を作り上げるようなものだから、その意味で、「私にはとても手に負えない」と思ったのである。
ところが、「次は邪馬台国の謎に挑んでみればどうか」という提案に接してからは、どうも落ち着かない日々が続いた。そもそも私は、少年のころより歴史が大好きで、その傾向は今になっても衰えをみせていない。そして、天性といっていいその興味が右の提案に接して一気に顕在化してきて、どうにも「邪馬台国への挑戦」の誘惑に耐えきれず、とうとう「やってみるか」と決意するに至った。
それからというもの、機会があれば邪馬台国関連の本を読むようになって、気がつけば、その世界のかなり深い部分にまでのめり込んでしまっていた。いったん突進を始めた興味の勢いは止まるところを知らず、やがては、これまで思いもつかなかった一つの仮説にたどり着いた。それは、過去の邪馬台国の諸説に、おそらく一度も登場したことのないものである。この仮説こそが、いっそう私を邪馬台国の謎の解明に引きずり込むことになり、やがては「北方迂回ルート」と称する魏使がカラフト経由で邪馬台国にやってきたという「新説」を導き出すことになった。とはいっても、私は古代史や考古学あるいは古代文献史など、いわゆる学問の専門家ではなく、一個の著述家にすぎない。だからこの「新説」は、専門家や研究者の方々から拒絶され、おそらく奇想天外な「書き物」として扱われることになるだろう。しかし、先ほども述べたように、邪馬台国に関してはとにかく現存する史料が少なく、これを研究するには、わずかな史料を起点とした大胆な解釈と仮説、想像が必要とされる。ということは、そこにはもはや専門家や素人といった境界は存在せず、興味あるすべての人に対して門戸が開かれているといっていい。そこに、私のような「素人」でも参加できる余地が残されている。
ともあれ、本書において私が提唱する「北方迂回ルート」は、これまで長年にわたって議論され続けてきた「邪馬台国の謎」についての一つの解答だと思っている。これを正とするか邪とするかは、読者諸氏のご判断にお任せしたい。
- 2011/03/15(火) 12:57:54|
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邪馬台国の謎というのは、一言でまとめてしまえば、
「邪馬台国はどこに存在したのか?」
ということである。ただし、その所在地は、一つの権威ある史料の中に明確に記されている。記されてはいるのだが、その記事の内容が、無数といっていい解釈の余地を含んでいるから、これが諸説乱立の根となっている。
その史料とは、中国の紀元二二〇年から二八〇年までの五十年間の、いわゆる「三国時代」の歴史を綴った『三国志』である。二二〇年というのは、四百年にわたって中国を支配してきた漢帝国、詳しくいえば前漢と後漢にわかれているのだが、その後漢が滅亡して、魏が建国された年で、これを機に、地方勢力として魏と敵対していた蜀と呉もそれぞれに建国を果たし、たがいに後漢王朝の正統の後継者を称して抗争を繰り返した。二八〇年は、魏から帝位を譲られた晋が三国の抗争を制して天下を統一した年であり、その晋の時代に、この史書は書かれた。
そのような複雑な時代の歴史を描いた書だから、『三国志』は、魏、蜀、呉のそれぞれの「志(記録)」にわかれていて、それら三国のうち、魏について書かれた書が『魏志』である。その中の『東夷伝』の、さらに『倭人条』、これが問題の史料である。『魏志倭人伝』と通称されている。これ以外にも、『後漢書倭伝』や『宋書倭国伝』など多くの史書にも邪馬台国に関する記事が載っているが、それらはいずれも『魏志倭人伝』をテキストとして書かれているので、その意味で、まだ三国時代の息遣いが生々しく漂う空気の中で書かれた『魏志倭人伝』が、現存する史料の中で最も信憑性が高いといっていい。
「東夷」というのは、魏からみて東方に位置する国々のことで、それらの国情などを記録したのが『東夷伝』であり、さらにその中の日本に関する記述が『倭人条』である。そのころ、まだ「日本」という国家名称は存在せず、中国では「倭」と呼んでいた。これより四百年ほどのちの大化改新の時代、倭国が東方に位置することから、中国で大和朝廷のことを「日本」と書くようになった。なぜなら、東方といえば日(太陽)の上る国、つまり「日の本(もと)」だからである。そして奈良時代以降の日本では、自国のことを「ニホンあるいはニッポン」と音読するようになった。
「東夷」とは「東の夷(えびす)」を意味し、「夷」とは、都から遠く離れた未開の地の民とでもいった意味で、いずれにしても魏を中心としたいわゆる中華国家の辺境に散らばる国々を指している。ちなみに、東方の国々は東夷だが、北方は北狄(ほくてき)、西方は西戎(せいじゅう)、南方は南蛮という。いずれも、多少の侮蔑の意味を込めた表現である。
この『魏志倭人伝』に、魏の皇帝が倭の女王卑弥呼に使節を派遣したときの行程や、倭を構成する国々の様子が記されている。本来ならこの記事さえ読めば簡単に邪馬台国の場所を特定することができるはずなのに、それがそうはいかない。なぜなら、その記述の中に、先ほども述べたように、無数の解釈の余地をもつ「疑問」が散在しているからである。
それらの「疑問」をごく大雑把にまとめてみると、魏の使節が通った道筋の「距離」と「方角」が、どうも正確ではないというところに集約される。魏使の出発地点は朝鮮半島の付け根にあった帯方郡という、魏の出先機関で、彼らはまずそこから朝鮮半島の西岸を南下し、対馬、壱岐を経て北九州に到達する。そこまででも疑問は多いのだが、最大の疑問は北九州に到達したあとの行程で、その記事の無数といっていい解釈の相違から、現在に至るまで邪馬台国の存在した場所は諸説紛々としている。
そもそもこの論争の始まりは、江戸時代中期にさかのぼる。徳川幕府に参与していた儒学者の新井白石が、『古史通或問(こしつうわくもん)』の中で、邪馬台国は大和にあったとする「畿内説」を主張した。ほぼ同時代の国学者本居宣長は、『馭戎概言(ぎょじゅうがいげん)』において、邪馬台国の所在地が九州だとする「九州説」を説いた。これを端緒として二つの説が並立したが、その論争が熱を帯びるのは明治に入ってからのことで、一九一五年(明治四十三)に京都帝国大学の内藤湖南(一八六六~一九三四)が『卑弥呼考』の中で「畿内説」を発表し、同じ年に東京帝国大学の白鳥庫吉(一八六五~一九四二)が『倭女王卑弥呼考』の中で「九州説」を主張して以来、現在に至るまでこれら二つの説を核にして、長年にわたる論争が繰り広げられてきた。
それらの中で、『魏志倭人伝』の解釈がどれほど多岐にわたっているかを知るために、これまで邪馬台国の存在場所として発表された場所を挙げてみよう。
まず九州説では、福岡、博多、大宰府、筑後山門、筑後田川、筑前甘木、八女、島原、佐世保、肥後山門、阿蘇、人吉、八代、宇佐、中津、日向、鹿児島などの諸地域、畿内説では、桜井、天理、三輪山麓、大和郡山、飛鳥など大和地方の諸地域があり、さらには愛媛や松山、徳島、高知などの四国地域、そして吉備、出雲、安芸などの中国地方などが挙げられているが、これらは一例に過ぎず、実際にはもっと多くの候補地が存在するし、極端なものでは長野や山梨、千葉、さらにはジャワやスマトラ、エジプトといった海外にまで及ぶ説すらある。
とはいうものの、現在では、まず大雑把にいって、「九州説」と「畿内説」の二つに大別されているが、それでもなお両説ともに決め手を欠いていて、いまだ結論をみていない。
- 2011/03/16(水) 12:09:13|
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ここでは、前章で触れた『魏志倭人伝』について、いま少し詳しく述べてみたい。
三国志の物語は、長年にわたって日本人の心を捉え続けてきた。後漢帝国の終末期にあたる紀元二世紀末から三世紀前半にかけて、曹操、劉備、孫権の三人の英雄が、漢の正統後継者の座を競って武力抗争を繰り返し、やがてはそれぞれに魏、蜀、呉の国を打ち建てた。これが、前章で述べた「三国時代」である。そこには、蜀の劉備の軍師として目覚しい活躍を果たし、いまもって圧倒的な人気を得ている諸葛亮孔明や関羽、張飛らの活躍を軸にした壮大な物語が展開するが、じつはそれらのほとんどは、『三国志演義』という小説の中で描かれた架空の出来事であって、史実はごくわずかしか書かれていない。
『三国志演義』は、十四世紀から三百年にわたって中国を治めた明王朝の時代の羅漢中(らかんちゅう)という人が書いたとされる。彼はこの長大な小説を書くにあたって、『三国志』を種本とした。この『三国志』が、先述したように、三国時代を収拾して中国統一を果たした魏の後継国家である晋の時代に書かれた「正史」である。正史というのは、国家が編纂した正式の歴史書のことで、この史書は、陳寿(ちんじゅ)(二三三~二九七)という史家によって書かれた。
『三国志』は、全六十五巻という大作で、それは、全巻の半数ちかい量を占める『魏志』三十巻のほかに、『蜀志』十五巻、『呉志』二十巻によって構成されている。
陳寿は晋の時代に『三国志』を書いたが、彼の父は三国のうちの蜀の人で、その意味では、陳寿は蜀と深い関わりをもつ人だった。父は、蜀の将軍馬謖(ばしょく)に属する将校だったが、その馬謖が街亭という地で魏軍と戦ったとき、諸葛亮の命令を無視して蜀軍に敗戦をもたらした。諸葛亮は馬謖の才能を高く評価し、ゆくゆくは自分の後継者にしてもいいとまで思っていたのだが、だからといって馬謖に軍令違反の罪を問わなければ、蜀軍全体の規律の維持に支障をきたすかもしれない。そこで諸葛亮は、その才を惜しみつつも馬謖を斬刑に処した。後世に「泣いて馬謖を斬る」という諺まで伝わるほど歴史に名を残した事件だったが、このとき、馬謖の配下だった陳寿の父も、連座して髪切りの刑に処せられた。武人にとって髪を切られるというのは、最大の恥辱である。後世の批評家や文章家たちは、この事件によって陳寿が諸葛亮に深く恨みを抱き、そのために『三国志』の中で諸葛亮を不当に歪めて描いたと酷評した。それは『蜀志』の中の『諸葛亮列伝』の最後の部分で、「毎年のように軍勢を動かしながら成功とまでいかなかったのは、或いは臨機応変の軍略は亮の得手ではなかったのではあるまいか?」
という記述に集約されているという。これは、蜀の皇帝である劉備亡きあと、二代目皇帝劉禅を補佐しながらその志を継いだ諸葛亮が、再三にわたって「北伐」と称して魏討滅の軍を興したにもかかわらず、遂に目的を達することができなかったことを指しているのだが、この批判も、中国の清時代以降は、消滅してしまったようである。陳寿はそのような姑息な人物ではなく、正史としての『三国志』を著述しただけあって、その内容は公正な視野に満ちていて、しかも鋭利である。右の『諸葛亮列伝』の内容にしても、いまではその正当性を疑う者はいない。諸葛亮を百戦百勝の軍事の天才に造り上げたのは羅漢中の小説『三国志演義』であって、実際の亮は、たしかに戦略戦術の面でも卓抜した才を発揮したものの、やはりその本領は政治において活かされたから、右の陳寿の記述に間違いはなかった。
なぜこのようなことを書くかというと、邪馬台国研究者の中には、『魏志倭人伝』が内包する多くの疑問は、陳寿の拙劣な、あるいは曖昧な著述姿勢の結果だとする者がいるからである。彼らはいう。
「陳寿は、関係者から得た曖昧な情報を疑いもせず、そのまま採用した。だから『魏志倭人伝』の記述は間違いだらけなのだ」
と。疑問点の多くを陳寿のせいにして、自分たちの説を少しでも有利に導こうとする。そのような現代の一部の卑小な研究者たちがあげつらうには、陳寿という歴史家はよほど誠実で不動の存在なのである。
ただ、ここで一つ特記しなければならないことは、陳寿の記述が、ときとして簡潔に過ぎることである。『史記』や『漢書』などが、簡潔な文章の中にも、ここぞというところでは詳細なエピソードを挿入しているのに対し、『三国志』にはそのような箇所がほとんど見られない。そこで、のちの六朝時代の宋の文帝がこれを惜しんで、裴松之(はいしょうし)に指示して「注記」を書かせた。それほどに簡潔な文章だから、『魏志倭人伝』の記事にも、様々に解釈できる余地が生じているのである。
ともあれ、右に述べたような混乱の「三国時代」に、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送る。
邪馬台国というのは、紀元二世紀後半から三世紀にかけて実在した日本を代表する国家の名前である。なぜ「日本を代表する」といえるのかというと、それは三国時代の一角を形成する魏がそれを認めているからで、そのことも『魏志倭人伝』に記されている。
倭、つまり日本の女王卑弥呼は、西暦二三八年(景初二)六月、魏に難升米(なしめ)らを使節として遣わして、皇帝に拝謁させた。この当時の魏は、朝鮮半島の付け根のあたりに帯方郡という出先機関を置いていたから、まずはこの帯方郡で太守の劉夏(りゅうか)が倭の使節を受け入れ、そこから警護をつけて首都洛陽に一行を送った。ただし、この最初の朝貢が行われたのは景初二年ではなく景初三年(西暦二三九)とする説が多いが、ここでは『魏志倭人伝』の記述が正しいものとして、景初二年(西暦二三八)を採った。その理由については、第二部第一章で述べる。
倭の使節の謁見を許した当時の皇帝である斉王芳に、使節は、生口、つまり奴隷として、男四人、女六人、それに斑(まだら)文様を染めた布を献上した。この行為は、魏の皇帝に対して倭が臣従することを誓うものだから、斉王芳は大いに喜び、卑弥呼を魏に親しく従う倭の王、つまり「親魏倭王」として認め、それを証するために卑弥呼に下賜する品々を後日送り届けることを約した。これが、先述した「魏が邪馬台国を日本の代表と認めた」ということである。当時の倭には、三十ほどの国があって、それらの頂点に邪馬台国が君臨し、「邪馬台国連合」とでもいうべき大勢力を形成していた。
二年後の西暦二四〇年(正始元)、帯方郡の太守弓遵(きゅうじゅん)は倭に使節を派遣し、一昨年に皇帝が倭の使者に約した「卑弥呼に下賜する品々」を携えて、倭を訪れさせた。その品物とは、まずは卑弥呼が「親魏倭王」であることを証するための金印紫綬、つまり紫の組みひもをつけた金印と、他に銅鏡百枚、錦、白絹、真珠などの豪華な品々である。
三年後の二四三年(正始四)、卑弥呼は再び魏に使節を派遣し、生口と布を献上した。
それに応えて、二年後の西暦二四五年(正始六)、新しく魏の皇帝となった少帝が、帯方郡を通じて、倭の難升米に魏の国旗ともいえる黄色い旗指物を与えた。これは、倭という国が魏に従う国であることを明らかにしたものである。
西暦二四七年(正始八)、再び倭は魏に使節を派遣するが、このたびの目的は、魏の皇帝に対し、狗奴国との関係悪化を報告することだった。すでにこのとき、邪馬台国と狗奴国は局地的な交戦状態に入っていたが、魏は、この要請を受けて、使者として張政という者を派遣し、再び黄色い旗指物を与えて、難升米を督励した。そもそも卑弥呼が魏に使節を送って朝貢したのも、日本における強敵狗奴国との戦争に魏の支援を期待したからだったと思われるが、このたびは援軍までは派遣されなかったけれど、邪馬台国の背後に魏の存在があるという事実を黄色の旗によって誇示し、あらためて狗奴国を威嚇することができたから、まずはその目的を達したといっていい。だがこの時期、すでに卑弥呼は世を去っていた。
『魏志倭人伝』の文面から察するに、このあたりの張政の働きは華々しい。まず彼は、邪馬台国と狗奴国の間を取り持って停戦を実現した。そのあと、卑弥呼の後継として男子の王が立ったところ、倭国は分裂抗争に陥ったから、今度はこの混乱を収めるために、新しい女王として、弱冠十三歳の卑弥呼の血族イヨを立てた。これによって、ようやく倭国の騒乱が鎮まった。イヨは、倭国のために大きな貢献を果たした張政を魏に送り返すため、使節を発した。
以上が、『魏志倭人伝』に記載された、倭と魏との交渉のすべてである。
これらの出来事が『三国志』のどの時期にあたるかというと、三国鼎立の原因となった赤壁の戦いが行われたのは西暦二〇八年、魏の曹操の死が二二〇年、蜀の劉備の死が二二三年、呉の孫権の死が二五二年で、『三国志』の中で最も人気の高い諸葛亮の死が二三四年である。このようにみてみると、卑弥呼が初めて魏に使節を発したのは、赤壁の戦いの三十年後、諸葛亮が亡くなってからわずか四年後のことであり、卑弥呼が死んだとされる年には、まだ呉の孫権は存命して魏と対抗していた。また、『三国志』を著した陳寿は、諸葛亮の死の前年に生まれていて、魏使が邪馬台国を訪れたのは、彼の少年時代の出来事だった。いずれにせよ、邪馬台国が魏と交渉をもった時代、中国全土は三国抗争時代の真っ只中にあったのである。
そのような状況だから、邪馬台国が、臣従する相手として魏を選ぶとき、魏でなくとも、その南方に展開する呉という選択肢もあっただろう。にもかかわらず魏に臣従したという事実は、戦略的見地から大きく捉えてみても、魏にとって有利なことだった。西南に蜀、南に呉という強敵と戦っていた魏は、それら二国よりも武力は劣るものの、北東の背後の高句麗とも対していた。しかし、魏の東に位置する朝鮮半島は、幸いにも馬韓や辰韓、弁韓といった弱小勢力が並立して、いまのところは魏と抗争する姿勢は見せていない。しかし、もし卑弥呼が魏ではなく呉と結んだとすれば、倭は朝鮮半島に侵攻して魏の背後を衝くおそれがある。そうなれば、たとえその攻撃力が微小であったとしても、魏としては四方すべてを敵に取り囲まれ、その対応のためにはなはだしい消耗を強いられることになる。だから、倭が朝貢してきたという事実は、卑弥呼が考える以上に、魏にとって有利なことだったのである。このあたりに、卑弥呼を『親魏倭王』として優遇した理由があった。なにしろ、魏が「王」として遇したのは、倭と、西域の大月氏国だけなのである。もっとも、邪馬台国としても、魏を選ぶ確たる理由があったのだが、そのことについては、のちに詳しく述べることにする。
- 2011/03/17(木) 18:36:41|
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ここでは、第二章で述べた「邪馬台国の謎」が、具体的にどのような論争を巻き起こしてきたのか、また現時点ではどのような状態になっているのかについて、いま少し掘り下げてみたい。
魏の使節が邪馬台国に行ったのは、『魏志倭人伝』の記録を見るかぎりにおいて、二回ある。一回目は西暦二四〇年(正始元)、二回目は二四五年(正始六)である。さらに二年後に張政が倭に派遣されているが、これは狗奴国との戦争という緊急事態に対処することが目的だったから、おそらく魏の使節を編成する時間を惜しんで、倭の使節船に便乗した。したがって正式の使節としては、右の二回になる。
魏の出先機関である帯方郡を出発して海を渡り、倭国に至る道筋を、距離と方角を交えて記載したのが、右の二度のうちのどちらの使節だったのかはわからない。しかしながら、繰り返すようだが、この記述をもとにすれば、邪馬台国が存在した場所は容易に特定できるはずなのだが、ここに「距離と方角」という大きな疑問が立ちはだかっていて、そのことが現代に至るまで「邪馬台国論争」をことさら複雑にしている。
その中味に入る前に、まずは右に述べた帯方郡から邪馬台国まで魏使が採った経路と、それぞれの距離と方角を挙げておく。
①帯方郡 ⇨(方角指定なし:海岸に従って)⇨ 韓国を経て ⇨ 倭の北岸狗邪韓国*ここまで七千余里
②狗邪韓国 ⇨(方角指定なし:海路千余里)⇨ 対馬国
③対馬国 ⇨(南:千余里、韓海を渡る)⇨ 一大国
④一大国 ⇨(方角指定なし:海路千余里)⇨ 末盧国
⑤末盧国 ⇨(東南:陸行五百里)⇨ 伊都国
⑥伊都国 ⇨(東南:百里)⇨ 奴国
⑦奴国 ⇨(東:百里)⇨ 不弥国
⑧不弥国 ⇨(南:水行二十日)⇨ 投馬国
⑨投馬国 ⇨(南:水行十日、陸行一月)⇨ 邪馬台国
合計距離:帯方郡 ⇨(一万二千余里) ⇨ 邪馬台国
以上が、『魏志倭人伝』に書かれた行程についての記述をまとめたものである。そして、ここに記述された通りの「距離」と「方角」を採ると、日本のどこにも行き着かない。
まず「距離」について。
『魏志倭人伝』によると、帯方郡から邪馬台国までの合計距離を、「一万二千余里」としている。
そもそも帯方郡がどこにあったのか、じつはそれさえも諸説があって結論は出ていないが、話を進める必要上、本書ではまず、それらの説の中から、現在の北朝鮮の首都ピョンヤンの南五十キロの地点を設定したい。その根拠は、黄海北道鳳山郡沙里院と呼ばれるその場所の唐土城付近の古墳から、「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた、帯方郡の太守のものと思われる墓が発見されているからである。しかし、この墓碑があるからといって、ここが帯方郡の拠点だったかどうかまでは確定できないが、他のどの候補地にも決定的な物証のない現時点では、最も有力な候補地ではないかと思われる。
中国では、何千年にわたる王朝の変遷とともに、距離を規定する尺度も変わってきた。日本においてもそれは同じだが、中国の尺度の変化は、日本より遥かに頻繁である。旺文社の『漢和辞典』によると、『三国志』の時代と、それに続く晋の時代の一里は四百三十四・一六メートルとなっている。それは、一里=三百歩という計算から導き出されたもので、その「一歩」とは一・四四七二メートルとされている。そして「一歩」は六尺、「一尺」は二十四・一二センチである。
この換算値によって計算すると、一万二千余里は五千二百キロ余となる。そこで、実際に帯方郡、つまりピョンヤンの南五十キロを起点にして地図上で直線距離を計測してみると、たとえば邪馬台国と比定されている場所の一つである北九州の宇佐の場合には八百キロ、また、同じく比定場所の一つである奈良盆地の場合は千七百キロほどでしかない。もちろん飛行機などなかった時代のことだから、直線で行くのは不可能だが、それにしても、いくら海岸が湾曲していようと、湖沼や山岳地帯を避けて迂回しようと、とても五千二百キロには届かない。ここに大きな「距離の疑問」が立ちはだかるのである。
そこでこれまでの研究では、「短里」というものを採用したものが多い。昔から中国では、時代によって「里」の長さが異なっていることは先に述べた。卑弥呼が登場する魏の時代には右のように約四百三十メートルだが、陳寿が『三国志』を書いた晋の時代には、それとはべつに「一里=約八十メートル」という、いわゆる「短里」が存在したという説がある。そして陳寿は、魏ではなく晋の時代に『三国志』を書いたのだから、短里を用いて記述したのだとするのである。これで換算すれば、一万二千余里は九百六十キロ余となって、北九州あたりまでの距離にほぼ相当するから、「九州説」を主張する研究者たちにとってきわめて好都合の結果になる。
一方では、『魏志倭人伝』に書かれた距離はすべて曖昧だとして、より正確を期するため、『魏志倭人伝』に記された二地点間の距離を現代の技術で実測して、そこから一里が何メートルだったかを逆算する手法を採用する研究者も多い。それによると、一里はほぼ八十メートルから百メートルの間に収まって、右の「短里」とさほどの差はないから、結果としてはこれもまた、「九州説」を補強する考え方になっている。
次に「方角」について。
九州説と畿内説がそれぞれの主張を続けるなかで、とくに畿内説が強調するのが、
「『魏志倭人伝』に書かれた方角は不正確だ」
ということである。そこに記載された方角は、どの項をみても南や東南がほとんどだから、もしそれが正しいとするなら、ひたすら九州を南下することになって、帯方郡の東南方向に位置する奈良盆地には、いつまでたっても行き着くことができない。そこで畿内説では、
「『魏志倭人伝』における南は、九州到着後は、東の誤りである」
として、記述内容の大胆な方向転換を唱えた。ここで「九州到着後」といっているのは、少なくとも帯方郡から九州までの経路については、両説とも異論がないということである。なぜなら、「対馬」という、「疑いようのない」地名が、「九州までの経路は間違いない」という結論を導き出しているからである。
また、ある畿内説は、「混一彊理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」というものを持ち出して、『魏志』の示す方角はけっして間違っていないと主張した。これは、一四〇二年に李氏朝鮮の権近という人が作成した東アジアの地図で、この中に載っている日本列島は、九州を北端にして南に伸び、近畿地方は九州の南方に位置している。ということは、九州からひたすら南方向に行くと奈良盆地に達することになるから、「古代の中国や朝鮮半島の人々は、日本列島の方位を間違って理解していた。だから邪馬台国は奈良盆地にあったのだ」
と強調するのである。しかし、最近の研究によって、この地図は、製作の時点で方角を誤って記載されたことが判明した。同時代に作られた別の「混一彊理歴代国都之図」には、日本列島が正しい方位で載せられているからである。これによって、畿内説の根拠の一角が崩れたことになる。
ちなみに、この地図に挿入された日本地図は「行基図」というものだが、この地図については、のちに本書の重要なポイントとなるので、いま少し述べてみたい。
行基図の「行基」というのは、奈良時代の僧の名で、東大寺建立のために大きな役割を果たした行基(六六八~七四九)大僧正のことである。行基図は、その行基が作ったとされる地図である。行基は、弟子たちを従えて、仏教の教化や堤防設置、架橋などの社会事業を行うために全国を巡ったから、そのときに計測した各地の地理を一枚の地図にまとめたといわれている。ただ、行基自身が描いたとされる地図そのものは現存せず、最も古いものは、行基の死の五十六年後の八〇五年(延暦二十四)に京都の下鴨神社に納められたものとされていて、しかもその原本は現存せず、江戸時代中期にそれを書写したものだけが残っている。その「行基図」には、たとえば行基の生きた時代には存在しなかった加賀国(八二三年に設置)が記載されていることなどから、原本を書写した作者が、その時代の実情に合うよう加筆・修正を行ったものと考えられている。
現存する多くの行基図の中で最も古いとされているのは、鎌倉時代の一三〇五年(嘉元三)に描かれたものだが、いずれにしても、行基図は室町時代以降には遠くヨーロッパにまで伝わって、彼らが日本地図を作る際の参考になっているし、江戸時代後期に伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」を作るまでは、「日本地図といえば行基図」といわれるほど、その存在はポピュラーだった。
「方角」のことに話を戻すが、これ以外にも、たとえば「東」といえば、それは「東北から東南の間の四十五度のレンジを指す」という、方角に余裕を持たせる考え方なども多く導入されている。いずれにしても、『魏志倭人伝』の方角については、九州説は「正しい」とし、畿内説は「間違っている」として、いまもって真実は闇の中にある。
以上のように、『魏志倭人伝』に記載された「距離」と「方角」の解釈が千差万別になっていることから、邪馬台国が存在した場所は、現在に至るまで万人が納得できる論理や根拠を伴った特定がなされていない。
次に、右の「距離と方角」以外の観点で、これまで主張されてきた「両説」の根拠がどのようなものかを挙げてみることにする。
まず「畿内説」である。その最も大きなものは、奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡の存在である。
標高四百六十七メートルの三輪山は、ゆるやかな円錐形の独立峰の様相を呈していて、周囲から際立ったその容姿のせいか、太古の時代から自然物崇拝の対象とされ、奈良時代にはすでに、「神の鎮座する山」、つまり神名備(かんなび)山とされていた。その三輪山の北西麓に広がる一・五平方キロほどの古代集落跡が纏向遺跡で、ここは大和政権の象徴ともいえる前方後円墳の発祥の地とされている。中でも全長が二百八十メートルにおよぶ最大の「箸墓(はしはか)古墳」は、卑弥呼の墓ではないかと想定されている。なぜなら、前方後円墳の「後円」の部分の直径が、『魏志倭人伝』に記載されている卑弥呼の「円墳」の直径「百余歩」にほぼ一致するからという。「前方」の部分は、それ以後に増設されたと考えられている。また、この遺跡からは、北九州から南関東までの広範な地域で製造された土器が発見されているので、この地が当時の日本を統括する交流センターのような役割、つまり日本の中心としての位置づけにあったとする研究者が多い。つまり、ここには日本を代表する国家としての邪馬台国が存在した、と。
ただ、箸墓古墳を取り囲む「周濠」と呼ばれる堀からは馬の輪あぶみが発見されているが、『魏志倭人伝』の記述によると、卑弥呼の時代の日本には馬がいなかったというから、箸墓古墳は卑弥呼より後代のものであるとする説も強い。
ところが、二〇〇九年の五月に、千葉県佐倉市に拠点をもつ国立歴史民族博物館の研究グループが発表したところによると、「放射性炭素年代測定」という最新の技術によって、箸墓古墳から出土した土器に付着した穀物を測定した結果、この古墳の築造年代が西暦二四〇年から二六〇年の間だということが判明した。これは『魏志倭人伝』に記載されている卑弥呼の死の年とされる「二四七年ごろ」に合致するから、研究グループは、
「時期が一致し、卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」
と指摘した。これによって畿内説は大いに勢いづいたが、それでも、
「放射性炭素年代測定法は万全ではない。他の方法での実証や検証を積み重ねて、最終的に年代を確定する必要がある」
とする慎重意見も多く、なお学界全体として承認されるには至っていない。
これを除けば、他の根拠については有力なものが少なく、かつては説得力をもっていたものの、現在ではさほど重視されていないものがほとんどである。
たとえば、
「近畿地方には、三角縁神獣鏡と呼ばれる銅鏡が多数出土している」
という事実である。『魏志倭人伝』によると、魏の皇帝が卑弥呼に与えたいろいろな下賜品の中に、「銅鏡百枚」というものがあった。その銅鏡は三角縁神獣鏡と呼ばれる種類のもので、それが近畿地方から数多く発見されているということは、とりもなおさず邪馬台国が畿内に存在したことを証拠立てるものではないかというのである。ところが、その後も同じ種類の銅鏡がどんどん出土され、すでに五百枚に及んでいるから、これでは、魏から下賜された「百枚」という数字を大きく上回ることになり、重大な矛盾を生むことになった。したがって現在では、これらの銅鏡は中国からもたらされたものではなく、日本国内で鋳造されたものではないかという説が一般的になっている。
また、前述の「混一彊理歴代国都之図」の存在も一時は畿内説に有利に働いていたが、これについても既述のように、誤って製作されたものと判明しているから、有力な証拠とはならない。
他には、『日本書紀』の中で、卑弥呼を神功皇后と同一視していたり、『隋書』には、日本の首都である大和について、
「『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。古よりいう、『楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里にして、会稽の東にあり』」
と、大和は「古えの邪馬台国」であるといった表記がされていたりと、「畿内説」は放射性炭素年代測定の結果を除けば、すべてが文献研究の結果である。
さらに、先に述べたように、距離については「さほどの問題はない」とし、方角については、朝鮮半島を経由して対馬、壱岐から北九州に上陸する経路は九州説と同じだが、そのあとの「南」や「東南」という方向を、記載ミスだとして、「東」に変えている。そのようにしないと、九州から大和にまで到達しないのである。
いっぽうの「九州説」だが、これは畿内説の纏向遺跡のようにピンポイントの場所を比定しているのではなく、研究者によって九州内のさまざまな場所の比定がなされている。したがってその根拠も千差万別だが、九州説における最も大きな根拠は、やはり「短里」である。これを用いると、北九州地方一帯が「帯方郡から一万二千余里」という邪馬台国のレンジに入ることになる。
また、この短里は、畿内説を完全に否定してしまう強力な根拠ともなっている。というのも、全行程一万二千余里のうち、北九州の各所に比定されている伊都国までが一万五百里で、残りはわずか千五百里=百二十~百五十キロしかなく、それでは到底大和にまで行けないからである。
いまひとつ九州説の独自の解釈は、「放射説」である。これは『魏志倭人伝』の中の行程に関する表現が、伊都国を境にしてわずかに変化していることから、伊都国から先の奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国は、連続する行程上にあるのではなく、伊都国を基点にして放射状に散在しているという説で、これを採用すれば、邪馬台国は伊都国の次に位置することになって、ますます距離は短縮され、北九州のどこかに存在した可能性が高くなる。これについては、のちに詳述する。
しかしながら、九州説の弱いところは、実際に九州のどこを探しても箸墓古墳のような巨大古墳が発見されていないことである。だとすれば、邪馬台国は九州の小さな国々の中の一つの有力な国家ということになるが、そのような小規模国家に、魏が「親魏倭王」という、いわば大月氏国並みの最恵国待遇を与えるだろうかという疑念が残るのである。
いずれにせよ、これまで多数の研究者や専門家たちが提示してきた既存の邪馬台国論のすべては、それぞれの主張や結論を提示するに際して、独自の、ときにはあまりに独善的といっていいような仮説を採用している。「距離」と「方角」のことはもちろん、それ以外でも、『魏志倭人伝』に記載されている国名を、それに似通った現在の地名に当てはめたりといった、素人でさえ「これはどうかな?」と首をかしげるような際立った強引な解釈が多い。しかしそれは、先ほども述べたように、『魏志倭人伝』の記述そのものに、そのような独自の解釈をせざるをえないような余地が散在しているからで、それを断行しない限りは結論を導くことができないから、ある程度はやむをえないことだろう。ともあれ、現時点においては両説ともに決定打を欠く状況で、もはや『魏志倭人伝』などの文献史料の考察だけでは限界があるとする意見も多く、たとえば放射性炭素年代測定や、箸墓古墳などの被葬者の発掘といった、考古学的発見に今後を期待する風潮が大勢を占めつつある。
なお、ここで述べた両説については、ほんの表面をなぞっただけでしかない。実際には各研究者の情熱を傾けた考察と記述によって、その深奥まで到達することができるのだが、本書の目的は、それらを解説することではないので、必要にして最少限にとどめた。
- 2011/03/22(火) 20:04:38|
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