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戦乱の邪馬台国~失われた航跡

魏使がカラフト経由で邪馬台国にやってきた新説「戦乱の邪馬台国」を公開。

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五 新しいアプローチ

 私は、古代日本史のさまざまな謎を検討するにあたって、邪馬台国の場合は、他に比較して圧倒的に有利だと思っている。
 『古事記』や『日本書紀』の成立以前の歴史に肉薄しようとする場合、その文献的参考としては、これら二冊を中心とした数少ない史料に頼らざるをえない。そして、誠に残念ながら、これらの書物は、歴史的事実を「歴史」として扱わず、あるものは「神話」として捉え、あるものは「史実」として捉えているものの、当時の政権にとって有利な形に書き換えているのである。その意味でこれらの書は、史書ではなく、天皇家の権威を徹底して強調し、「八世紀日本」という未成熟な国家を確固とするものに仕上げるために作られた政治の「道具」ということもできる。それにひきかえ、邪馬台国の謎に挑む場合には、そのような政治的道具ではなく、中国の正史としての『三国志』が存在する。外国人の目で客観的に描かれた邪馬台国の姿やそこに至るまでの経路が書き残されているという事実は、たとえ前章までに述べたさまざまな疑問があるにせよ、邪馬台国研究にとって圧倒的に有利であり僥倖なのである。
 いよいよこれから邪馬台国の謎に挑んでいきたい。そのアプローチ姿勢の基本として、私は、
「『魏志倭人伝』に記載された内容に誤りはない」
 という一項を掲げたい。そして、私が解こうとする最大の謎は、それらの記述に基づく帯方郡から邪馬台国に至る「経路」であって、「邪馬台国がどこにあったのか」という結論は、その結果として導き出すことができるものと考えている。
 いま少し詳しくいうと、『魏志倭人伝』に記された距離については、三国時代と晋時代に用いられていた「一里=約四百三十メートル」が使用されているということである。べつに根拠というほどのものはない。しかし、たとえ陳寿が『三国志』を書いた晋の時代に「短里」というものが存在していたとしても、三国時代の出来事を記述するわけだから、晋時代の短里ではなく、三国時代の里程を用いるのがごく当然のことだと思う。これは、陳寿という史家に対する私の信頼の顕れといってもいい。何よりも事実を重視しなければならない史家が、幾多の邪馬台国研究家がいうように、次の時代の里程を用いるといったような曖昧なことをやるわけがない。たしかに陳寿は晋の時代に『三国志』を著したが、この書は、晋の人々に広く読ませるためのものではなく、晋という国家が何千年という後世にまで伝えるべき「正史」なのである。いわば時代を超越したこの種の書の中に、歴代王朝の一つでしかない晋の里程を用いても何の意味もなく、もしそれをやれば、厳密な事実を書き残すべき歴史に偽りを書き込むことにさえなる。だから陳寿は、『三国志』の里程を書くにあたって、三国時代のものをそのまま用いた。まして陳寿は、後世の人々から司馬遷と並び称されるほどの史家である。日本の邪馬台国研究家たちが簡単に「陳寿の記述は間違っている」あるいは「曖昧な点が多い」と言ってのけるほどいい加減な史家ではない。それは、あまりに史家というものの何であるかを知らない言い分である。
 たとえば陳寿は、生前の諸葛亮の言動を、父の語りを通じて知っている。そして、その諸葛亮が語った言葉として、距離に関する記録を残している。これは、赤壁の戦いの直前、諸葛亮が呉の陣営に赴いて孫権と対面したときの描写の中に出てくる。このとき、曹操はすでに百万の大軍を率いて孫権と劉備を討伐するために南下していて、劉備軍は、その大軍によって長阪というところで撃ち破られていた。このままでは蜀も呉も個別撃破されるに違いないと恐れた諸葛亮は、両国の同盟を結んで曹操と対抗しようと、孫権を説得するのである。諸葛亮の懸命の弁舌に大いに心を動かされた孫権だが、それでも優柔不断の彼は、曹操の大軍を恐れてなかなか意を決しようとしない。家臣たちの弱腰もある。それを見てとった諸葛亮は、孫権に向かって、
「曹操と戦うのを恐れ、その武威に屈して武装解除するなら、今すぐにでもやるべきです」
 と告げて、故意に孫権の怒りと奮起を誘い、とうとう同盟を決断させる。しかしこのあと、さすがに不安になった孫権は、
「たしかにいま、曹操に対抗できる者は私と劉備殿しかいないが、その劉備殿は曹操に負けたばかりだ。いったいどうやって立て直すというのか」
 と尋ねた。これに対して諸葛亮が答えたのが、
「劉備殿は長阪の戦いで破れたとはいえ、生き残りの兵と関羽の水軍を合わせれば精鋭一万。さらに江夏の劉殿の手勢も一万はくだりません。一方、曹操の軍勢は遠征に疲れきっており、さらに劉備殿を追ってきた騎兵も、一日一夜で三百余里を走りづめだったとか。“ 強弓から放たれた矢も、勢いを失えば絹も通さぬ ”とはこのこと。兵法で無謀な強行軍を固く戒めているのも、このためです」
 という言葉である。この中に、「一日一夜で三百余里を走った」とあるが、これを三国時代の「里=約四百三十メートル」で換算すると百三十キロ弱になる。もしこれを晋時代の「短里=八十メートル」で換算すれば二十四キロとなるが、全員乗馬の騎兵隊が、まる一日走って二十四キロとすると、単純計算すれば時速一キロでしかない。休息や食事の時間を十分にとって、たとえそれが時速二キロになったとしても、騎兵の強行軍として、とてもその速度は考えられない。あまりに遅すぎる。
 では逆に、騎兵部隊による一日百三十キロ弱の走行は可能なのだろうか。
 一八七六年にアメリカ合衆国で起きた「リトル・ビッグホーンの戦い」という事件がある。これは、合衆国政府が、原住民であるインディアンのスー族やシャイアン族などに対し、それまで住み慣れた土地を離れて指定された居留地に移る指示を出したことが発端となった出来事で、それを拒んで反抗の構えを見せたインディアンを討伐するために、「イエロー・ストーン遠征隊」と称する陸軍の大部隊が派遣された。そのとき、二手に分かれた軍のうち、ジョージ・カスター将軍が率いる第七騎兵隊七百騎は、その快速を活かしてインディアンの野営する場所に先行して到着した。ここで、別ルートを採る後続部隊と合流する手筈になっていたのだが、よほど功を焦ったのか、カスターは後続の部隊を待たずに単独で攻撃を仕掛けた。その結果、一説には十倍の兵数というインディアンたちに包囲され、カスターはじめ第七騎兵隊は全滅する。インディアンの戦力など取るに足りないと思い込んでいたカスターの軽率がこの悲惨な結果を招いたのだが、カスター軍が単発式のカービン銃しか装備していなかったのに対し、インディアンのほとんどは、連発式のウィンチェスター銃を持っていたから、この圧倒的な装備の差は、各兵員の勇気や敢闘精神ではとても補え切れるものではなかった。
 本論とあまり関係のない話を持ち出したようだが、じつは、この第七騎兵隊が、インディアン討伐のために疾駆したスピードが、一日に百二十五キロだった。曹操軍の「三百里=百三十キロ弱」という数値と、ぴったり合うのである。たしかに古代中国の馬と第七騎兵隊の馬との能力の違いはあるかもしれない。写真で見る限り、生き残ったカスター将軍の馬は、現代の競馬で用いられるようなスマートなサラブレッドではなく、どちらかといえば脚が短い、アメリカの馬種である。それに対し、三国時代の馬はどうだったか。それを知るには、秦の始皇帝陵で発掘された兵馬俑を見ればいいだろう。きわめてリアルに造られたその馬の脚は、カスターの馬よりさらに短いが、この脚の長さの違いがどれほどの走行能力の差につながるのかはわからない。多少のスピードの差は出るかもしれないが、スタミナの多寡が大きく左右する走行距離については、さほどの違いは出ないように思える。いずれにしても、「一日百三十キロ足らず」という走行能力は、第七騎兵隊が実証したように、三国志の時代でも可能だった。ということは、要するに陳寿はこの記述に、三国時代の「里=約四百三十メートル」を用いているのである。つまり、諸葛亮の言葉を晋時代に存在したとされる短里に焼き直すのではなく、そのまま正確に記述した。それが史家として当然の姿勢であり、責任でもある。
 たとえば我々が日本の幕末について書かれた本を読むとき、「新撰組の近藤勇が刃渡り七十三センチの虎徹をふりかざして」
 と書かれていれば、大いに違和感を感じるだろう。やはり「二尺四寸の虎徹を」でなければおかしい。それと同じ感覚なのである。
 以上のような理由によって、私は、『魏志倭人伝』に記載された里は短里ではなく、魏と晋が公式に使用した『里=約四百三十メートル』を用いていると考えた。ただ、前に述べたように、その一里というのは「三百歩」のことで、その「一歩」は一・四四七二メートルとされている。どうも私にはこの数値が少々精緻に過ぎると思われるので、本書では、この小数点四桁の歩幅に基づく精緻な「一里」ではなく、これに基づいて、これまで幾人かの歴史学者が採ってきた「一里=約四百メートル」という換算を用いることにしたい。
 いま、「里=約四百メートル」であったことを証するために『三国志』の例を出したが、次に、「方角の正しさ」を証する一つの例として、以下の言葉も挙げておきたい。これは、右の赤壁の戦いの直前の緊張し切った時期に、曹操が呉の孫権に宛てて発した降伏勧告状とでもいうものである。その一節に、
「このたび、勅命を奉じて南征したところ、劉は刃向かうことなく降伏した」
 という言葉がある。この中で曹操は、「南征」と書いているし、陳寿もまた正確にそれを書き写している。そのとおり、都の洛陽から赤壁への方角は、たしかに「南」である。要するに、この一例をみても、『三国志』に記載されている方角は間違いないといえる。だから、『魏志倭人伝』の方角もまた、「正しい」といえるのである。おそらく陳寿は、『魏使倭人伝』を書くに際して、実際に邪馬台国に行ったことのある使節の誰かから体験談を聞き取っただろう。したがって、もしその「使節の誰か」が、記憶違いかなにかで誤った方角を伝えたとすれば、陳寿もまたそれを誤ったまま記述しただろうが、その場合を除けば、すべて正確に記述したに違いない。これまでの一部の邪馬台国研究者が主張したように、「方角が間違っている」ことなど、基本的にありえないのである。
 一説には、陳寿は『倭人伝』を書くに際して、同時代の魚豢(ぎょけん)という人が著した『魏略』を参考にしたとされる。この原本はすでに滅びて伝わっていないが、いろいろな書の中に断片的に引用されているから、わずかながらその内容を覗うことができる。それを吟味してみると、『魏志倭人伝』の内容と一致する部分が多いというのである。しかし、たとえその説が正しいとしても、陳寿が『魏略』の記事を参考にする際には、使節の経験者に諮ってその真偽を十分に検証しただろうし、その中から事実と認められる事項のみを引用しただろう。それが歴史家としての使命であり、責任だからある。
 
 繰り返すようだが、『魏志倭人伝』に書かれている里程は「一里=約四百メートル」であり、「距離」と「方角」についても、陳寿に「邪馬台国行」の詳細を語った魏使の誰かが誤った情報を伝えない限り、まったく正確であるというのが、私の持論である。
 しかし、この数値で換算すると、帯方郡から邪馬台国までの距離は四千八百キロ余ということになる。先に述べたように、どう考えてみても、北九州経由のルートを採るかぎり、「九州説」の諸比定地に行くのにそれほどの距離は必要としないし、「畿内説」にしても、帯方郡から奈良盆地までの直線距離は千七百キロでしかなく、それに海岸線の湾曲や湖沼、山岳地の迂回を含めたとしても、とても四千八百キロには及ばない。あまりに遠すぎるのである。では、魏使たちはいったいどのルートを通ったのだろうか。

 そこで私は、これまでの諸説とはまったく異なる視点に立って考えてみることにした。それは、
「魏使一行は本当に対馬を経由して北九州のどこかに上陸したのだろうか」
 ということである。
 『魏志倭人伝』に書かれたその部分をあらためて見てみると、
①帯方郡 ⇨(方角指定なし:海岸に従って)⇨ 韓国を経て ⇨ 倭の北岸狗邪韓国*ここまで七千余里
②狗邪韓国 ⇨(方角指定なし:海路千余里)⇨ 対馬国
③対馬国 ⇨(南:千余里、韓海を渡る)⇨ 一大国
④一大国 ⇨(方角指定なし:海路千余里)⇨ 末盧国
 帯方郡から韓国を経由して狗邪韓国に至る経路には、方角の指定がなく、「海岸に従って」とのみ説明されている。ただ、原文では、
「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧(もと)百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里」
 となっていて、一箇所だけ方角が書き込まれている。この、「あるいは南し、あるいは東し」
 という言葉は、帯方郡から狗邪韓国までの途中で、「南に行ったり東に行ったり」という、進行方向を南や東に振るような行程があることを意味している。
 これまでのすべてといっていい説は、
「韓国を歴て」
 というのが、「朝鮮半島南岸域にある、馬韓、弁韓、辰韓などの韓国を経て」と理解し、狗奴韓国を、半島南岸の国とした。
 しかし、そのように理解すると、帯方郡から狗邪韓国のある朝鮮半島南岸までの距離が七千余里ということになるから、「一里=約四百メートル」で換算すると二千八百キロになる。これではあまりに距離が遠すぎるので、「短里」というものを持ち出した。なぜそのようなことを考えたのかというと、それは、そのあとに出てくる「対馬」の位置があまりに明確になっているものだから、その対馬に向けて船出する地を韓国南岸であることを絶対的な既成事実と考え、そこにたどり着くために、本文に指定されていない方角を「南」と決めつけ、あまつさえ「短里」の考え方を導入したのである。過去のすべての説が、これを常識であるかのように捉え、狗邪韓国を韓国南岸の地に比定している。そして、韓国南岸から対馬に渡れば、次の「一大国」は壱岐だと、これまた当然のように結論づけている。ここまでは邪馬台国研究における「決まりごと」であり、あとは「末盧国」を北九州のどこに比定するのか、その検討から本格的な議論が始まっているのである。
 この時点で私は、「おかしいのではないか」という大きな疑問をもった。方角指定もされていないのに、なぜ「南」と決めつけるのだろうか。「韓国を経由」することと「対馬」という名称が登場することが不動の自信を与えているだけではないのか、と。それに、対馬国といっても、原文では「對海国」となっていて、これをただちに「対馬国」と読み替えるのもどうかと思われる。ひょっとしたら、「対馬」とはまったく別の土地なのではないのだろうか。
 まずここで、私は、これら過去のすべての説に異論を唱えたい。なぜなら、私は「里=約四百メートル」を採っているから、その視点に立つなら、帯方郡から韓国の西岸を南下して韓国南岸の狗邪韓国に行くのに、二千八百キロという距離はいくらなんでも長すぎるからである。『魏志倭人伝』の記述が正しいとするなら、そのようなことはありえない。だから私は、魏使一行はまったく別のルートを通ったのだと考えた。きわめて単純で稚拙な発想かもしれないが、妙にこのことに確信のようなものを抱いた。とはいいながら、この謎をどのように解けばいいのか、まったく途方に暮れる思いをもった。
 そもそも、邪馬台国までの四千八百キロという長大な距離は、当時の中国の人たちにとって、どの程度の「遠さ」だったのだろうか。この距離が、到達不可能なほどの遠さなのか、それとも、無理をすれば行くことができる遠さなのかということである。このことを考える材料としては、シルクロードを思い浮かべるのが適切だろう。
 紀元一世紀ごろというから、中国では漢の時代、ヨーロッパではローマ帝国の時代になるが、すでにシルクロードは、地中海世界と中国の間を結んでいた。起点と終点の表現に言い換えれば、洛陽とシリアのアンティオキア間である。その距離、およそ九千キロで、中間には天山山脈やタクラマカン砂漠などの難所が立ちはだかっている。いっぽうでは、海路を行く「海のシルクロード」と呼ばれるルートもあった。それは、アラビア半島の港を起点にして、インド洋を渡海してインドに至り、東南アジア諸国を経て中国の南岸に至るルートである。陸路がしばしば諸国の戦乱によって中断されたのに対し、こちらの方は、そのような情勢にほとんど左右されずに往復できたから、まずは確実なルートといえる。古代エジプトのプトレマイオス朝の時代からすでにインドとの交易が行われてきたから、ローマ帝国はこれを継承し、ルートを延長させて中国に至ったのである。
 このように見てみると、当時の中国の人々の意識の中では、シルクロードの半分ほどの距離でしかない「五千キロ程度」というのはさほど長大な距離ではなかったことがわかる。したがって、邪馬台国までの距離が四千八百キロであったとしても、そこまで行くのにさほどの痛痒は感じなかっただろう。
 そのことはいい。問題は、帯方郡から九州か奈良に行くのに、どこをどう通れば四千八百キロも必要なのかということである。いろんな可能性が浮かんでは消え、遂には「これはやはり無理だったか」という感覚が芽生えて、やがて「やはり短里を用いなければ無理なのか?」という、絶望的な思いさえ脳裏をよぎったとき、それまでまったく考えもしなかったヒントが閃光のように駆け抜けた。
「これは、ひょっとして」
 と、打開すべき道が微かに見えたような気がした。それは、「義経北行伝説・大陸渡海伝説」である。
 じつは私は、以前からこの伝説に興味をもっていた。源義経は、源平合戦のとき、源頼朝の弟として平家追討の将軍職に就き、源氏軍を率いて、度々の合戦ののちに関門海峡の壇ノ浦で平氏を滅ぼした大戦術家だが、その義経は、理由は諸説あるものの、戦後に兄頼朝から遠ざけられて奥州平泉に逃れた。幼少のころから親のように義経を育ててきた藤原秀衡を頼ったのだが、その直後に秀衡が他界したため、跡を継いだ泰衡は頼朝の圧力に屈して平泉の義経館を攻め、自害させたとされている。しかし、実際には義経は平泉で死なず、そこから東北の諸国を経て北海道に逃げ、やがてカラフトを経由して大陸に渡ったという伝説がある。この伝説の中で、私は義経が大陸に渡ったとまでは思わないが、少なくとも平泉戦の状況から考えて、東北から北海道あたりまでは逃げたのではないかと思っている。それはさておき、私の興味は、この説の中で、北海道から大陸に渡ることが、当時の日本ではさほど困難な、あるいは非常識なことではなかったというところに集中した。
 遣隋使や遣唐使が九州から東シナ海を渡って中国を往復したことは学校で習って知っていたが、それは奈良時代から平安時代にかけて朝廷が牽引力となり、日本の国力を挙げて取り組んだプロジェクトだからそのような事業ができたのであって、時代は少し下がるものの、まさか日本の最北端の北海道からカラフトに渡り、大海を横切って大陸に渡航できるほどの技術と力が、ごく一般的な理解として存在するとは思いもしなかった。だから、右の義経渡海説に大きな興味をもったのである。そしてそのヒントは、邪馬台国の謎に向けて大きな指針を与えてくれた。そう、
「魏使一行は、朝鮮半島を南下せず、遥かに北上を続けてカラフトに渡り、そこから南下して邪馬台国に来たのではないか」
 という発想が急激に膨張したのである。
 第一章の最後の部分で私は、
「それからというもの、機会があれば邪馬台国関連の本を読むようになって、気がつけば、その世界のかなり深い部分にまでのめり込んでしまっていた。いったん突進を始めた興味の勢いは止まるところを知らず、やがては、これまで思いもつかなかった一つの仮説にたどり着いた。それは、過去の邪馬台国の諸説に、おそらく一度も登場したことのない仮説である。この仮説こそが、いっそう私を邪馬台国の謎の解明に引きずり込むことになり、やがては『北方迂回ルート』と称する『新説』を導き出すことになった」
 と述べた。ここでいう「北方迂回ルート」こそ、右に述べた新しい「発想」なのである。
 そしてその発想は、直後に読んだ本の中に「北の海みち」という言葉を見出して、さらなる膨張を遂げた。
 それは、秋田大学名誉教授で、国造制研究の第一人者とされる新野直吉が著した『古代日本と北の海みち』である。その中に、「沿海州から狭い間宮海峡を渡ってカラフト島に入り、陸上を南下して宗谷海峡を渡り、北海道島に上陸してさらに南下し、津軽海峡を越えるという水陸交互の経路こそ、安全でもあり、馬糧の採取にも便利な道程である」
 という旨の説があって、この経路を利用して、沿海州や中国東北部の騎馬民族から、日本に上質の馬が渡ってきたと推論している。たしかに、古代から出羽と奥羽は名馬の産地とされてきたから、このことがとりもなおさず「北の海みち」を使った大陸との盛んな交流の存在を証拠立てているという。さらに新野博士は、玄界灘や響灘のような難所を越える経路より、「北の海みち」の方が安全な航海を期することができると主張する。
 この本を読んだとき、私は、「魏使たちは、この『北の海みち』を採ったのだ」
 という確信をもつに至った。もっとも、「北の海みち」が、海上航走ばかりでなく、カラフトや北海道の陸路も併用したとされているのに対し、私の「北方迂回ルート」は、邪馬台国の近くに来るまでは海上航走だけだから、細かくいえばその点に違いはある。
 帯方郡から朝鮮半島を横切り、沿海州の海岸を左に見ながら陸地に沿って北上し、間宮海峡を渡ってカラフトに入る。この海峡の最も狭いところはネヴェリスコイ海峡と呼ばれ、わずか八キロ弱しかない。そこからひたすらカラフト西岸を南下し、やがて対馬と壱岐に相当する島を経由して、然るべき港から陸路に切り替えて邪馬台国に入る。『魏志倭人伝』には帯方郡から出発する方角が記載されていないから、北に行ったとしても、何の問題もないはずである。このルートをざっと地図上で測ってみると、北九州までがほぼ五千二百キロで、奈良盆地までがほぼ四千六百キロとなった。奈良盆地の場合だと、『魏志倭人伝』の「一万二千余里=四千八百キロ余」に近く、四パーセントというその差は誤差の範囲といっていい。ここまできて私は、この「北方迂回ルート」を本格的に検討してみようと思うと同時に、『魏志倭人伝』の距離が正確であると考えると、邪馬台国は九州ではなく、奈良盆地にあったに違いないと確信したのである。もし邪馬台国が北九州にあったとすれば、たとえどのような事情があったとしても、最も近距離の対馬海峡を渡ったことだろう。
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  1. 2011/03/28(月) 14:07:04|
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亥辰舎いしんしゃ

Author:亥辰舎いしんしゃ
戦乱の邪馬台国~失われた航跡

著者:野村篤
カバーイラスト:皇なつき
発行:亥辰舎
定価:1,500円

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