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戦乱の邪馬台国~失われた航跡

魏使がカラフト経由で邪馬台国にやってきた新説「戦乱の邪馬台国」を公開。

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七 「北方迂回ルート」を採る「もう一つの理由」

 前章で述べたように、魏使一行がカラフトを経由する大迂回路を採った理由は、対馬海峡の困難さにあった。しかし私は、彼らが北方迂回ルートを採らざるをえなかった理由が、もう一つあったと考えている。それは、まったく虚空の想像でしかないが、出雲王国の存在である。
 古代の出雲については、「ダイコクサマ」、つまりオオクニヌシノミコト(大国主命)や、縁結びの神としての出雲大社などが有名で、その存在は広く知られているが、歴史的な事象としての出雲については、よくわかっていない。一九八五年(昭和五九)に島根県簸川郡斐川町の荒神谷遺跡が発掘されるまでは、その地域一帯に目立った遺跡もなかったから、出雲大社を除けば強力な文化圏は存在していなかったのではないかと考えられていた。それにしては、『古事記』と『日本書紀』に記されている出雲神話は、神話全体の三分の一に及ぶ。要するに神話の多さだけが目立って考古学による裏付けがきわめて希薄だったのだが、右の荒神谷遺跡の発見は、にわかに古代史ファンの出雲への興味を、いやがうえにも掻き立てることになった。
 小学校から中学校にかけて、私は古代日本のことを学ぶとき、
「北九州の銅矛銅剣文化圏と近畿の銅鐸文化圏」
 という、二つの大きな文化圏があったと教えられてきた。もっともそのころは、まだ遺跡発掘の数がさほど多くなかったからそのようなごく大雑把な結果が出されていたのだろうが、出雲の荒神谷遺跡の発掘は、まさに従来の学説を覆すものとなった。なぜなら、それまで目立った遺跡がなかった出雲に、いきなり近畿や北九州に優るとも劣らない大規模遺跡が発見されたからで、なかでも弥生中期の銅剣がまとまって三百五十八本という、過去に例をみないほど大量に出土したことは、学界を驚嘆させた。さらに翌年、そこからわずか七メートルほど離れた場所で、今度は六個の銅鐸と十六本の銅矛が発掘された。銅鐸と銅剣、銅矛が一ヶ所から出土した事実は、これまでの「銅鐸は近畿、銅剣銅矛は北九州」という文化圏の大別を一気に否定してしまったのである。そして、出雲にはかなり強力な古代王国が存在して、それに関わる事柄が『古事記』や『日本書紀』の中に出雲神話として描かれたものだと考えられることになった。
 また、二〇〇四年(平成十二)の出雲大社の発掘調査のとき、高さが四十八メートルに達する巨大神殿の遺構が発見された。これは、もっと時代が下がった平安時代のころのものとされるが、なぜ出雲に、東大寺よりも背の高いこれほどの巨大建築を建てたのかを考えた場合、やはりそこには、古代からとてつもなく重要な王国の存在があったことを思わせるのである。ちなみに、平安時代の『口遊(くちずさみ)』という、一種の教養書には、日本の数ある建物の中で、「雲太、和二、京三」、つまり最も高いのが出雲大社の神殿、二番目が奈良の大仏殿、三番目が京都の大極殿と記されている。大仏殿は戦火によって何度か焼失しているが、現在のものは、高さと奥行きは創建当時のものとほぼ同じで、東西の幅だけが三分の二に縮小されているという。その高さは四十六・八メートルだから、出雲神殿の四十八メートルより、わずかに低い。
 それではここで、古代出雲王国のイメージ作りに役立てるため、オオクニヌシ(大国主命)や出雲大社などが登場する出雲神話とはどのようなものか、ごく簡潔に述べてみたい。ただし、神話といっても『日本書紀』と『古事記』などでは少しづつ登場人物の名前や物語の内容が異なるので、ここでは、成立年代の古い『古事記』から引用することにする。


 日本という国を作ったのは、イザナギノミコト(伊耶那岐命)、イザナミノミコト〈伊耶那美命)の夫妻だが、二人には三人の子どもがいた。長女がアマテラスオオミカミ(天照大神)で長男がスサノオノミコト(須佐之男命)、次男がツクヨミノミコト(月読尊)である。やがて最愛の妻イザナミを亡くしたイザナギは、アマテラスには「高天原」を、ツクヨミには「夜の世界」を、そしてスサノオには「海原」を治めるよう命じたところ、スサノオだけは母イザナミの死の悲しみから立ち直ることができずに激しく泣き続けたから、そのために山は枯木に満ち、川や海の水はすっかり乾いてしまった。あまつさえ禍を引き起こす悪神たちの騒ぐ声は夏のハエのように充満して、あらゆる悪霊の禍が一斉に発生した。これを見たイザナギは、なぜ海原を治めないで泣き続けているのか、その理由を問い質したところ、スサノオは、
「亡き母のいる国に行きたいので、泣いているのです」
 と答えた。これを聞いたイザナギはひどく怒って、スサノオを下界に追放してしまった。
 父イザナギから下界に赴く命令を受けたスサノオは、その経緯説明と暇乞いのために、すでに高天原にいる姉のアマテラスのもとに行ったが、天に上るときのスサノオは、山や川を鳴動させ、すべての国土を激しく震わせたから、それを聞いたアマテラスは、弟が高天原を奪いに来たと誤解した。その詰問に対してスサノオは懸命に弁解し、ようやく誤解を解いてもらうのだが、そのことで気をよくしたスサノオは、今度は高天原で悪戯の限りを尽くしたから、怒ったアマテラスは「天の岩戸」に隠れてしまう。なにしろ太陽の神アマテラスがいなくなったものだから、世界は闇に包まれてしまった。なんとかアマテラスに機嫌を取り戻してもらおうと、アメノウズメノミコト(天鈿女命)をはじめとする神々は天の岩戸の前で飲んで踊って大騒ぎをする。その気配を垣間見ようとアマテラスが岩戸をわずかに開けたとき、怪力で聞こえたタヂタラオノカミ(手力雄之神)が岩戸を引き開けたので、ようやくアマテラスは岩戸から出て来ざるをえなくなった。これによって高天原は元通りの光輝溢れる世界に戻るのだが、さんざん悪事を働いたスサノオは、髪と髭を切られ、手足の爪を抜かれて地上に追放される。そのときスサノオが降り立った地が「出雲」だった。
 そのあと、オオゲツヒメノカミ(大宣都比売神)という姫のお陰で髪も髭も爪もすべてが元通りになり、心までが浄化されたスサノオは、姫からもらった穀物の種を世に広める旅に出る。
 やがて斐伊川上流の小さな村に差しかかったスサノオは、一人の娘を間にはさんで泣いている老夫婦に出会う。聞けば、頭と尻尾が八つある巨大な蛇が今夜娘のクシイナダヒメ(櫛名田比売)を食いにくるという。それを哀れ
んだスサノオは、姫の姿をかんざしに変えて髪にさし、老夫婦には八個の甕を用意させ、そこに強い酒を満たして家の前に並べるよう命じた。やがてやって来たヤマタノオロチ(八岐大蛇)は、スサノオの作戦通りに八つの口で酒を飲み、酔っ払って眠ってしまった。そこに躍り出たスサノオは、泥酔したヤマタノオロチを斬り殺す。そのときオロチの体内から出てきたのが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。この剣は、のちにヤマトタケル(日本武尊)が東国遠征に携行し、焼津の野で敵の謀計にかかって火攻めに遭ったとき、この剣で火を薙ぎ払って助かったことから、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになった。天皇家に代々伝えられることになる「三種の神器」の一つである。
 スサノオはヤマタノオロチから救ったクシイナダヒメを妻とし、出雲に八重垣宮という宮殿を建てて住み、子をもうけた。その六世の孫がオオクニヌシノミコト(大国主命)である。このあたり、『日本書紀』では、オオクニヌシをスサノオの子、とも、六世、七世の孫とも伝えている。
 このオオクニヌシはよほど強大な権力があり、しかも各地に姿を現わし、ときとして民衆を救った神らしく、いろいろな場所で名を変えて祀られている。つまり、それほどに古代の出雲の権力は大きかったということだろう。
 一方、高天原のアマテラスは、“オオクニヌシが治める出雲は、彼女の父イザナギがスサノオに与えた土地だから、スサノオ亡きあとはアマテラスの直系が支配すべき国だ”と考え、使者を派遣して「国を譲りなさい」と迫った。しかし、事はうまく運ばず、オオクニヌシはいっこうに聞き入れようとしない。そこで、業を煮やしたアマテラスは、タケミカヅチ(武甕槌)とフツヌシ(経津主)の二人の神を派遣し、武力を背景に国譲りを迫った。この強要に接したオオクニヌシは、息子のコトシロヌシ(事代主)とタケミナカタ(建御名方)に相談したところ、前者は「アマテラスの要求に応えるべきだ」と返答したが、後者は「断じて受けるべきではない」としてタケミカヅチと戦った。しかし、結果は敗北で、敗走を重ねた挙句、信濃国の諏訪まで追いつめられて降伏し、諏訪神社に祀られた。これによって出雲の統治権はアマテラスの孫であるニニギノミコト(邇邇芸命)に譲られることになったが、オオクニヌシはこのとき、国を譲る交換条件として、出雲に壮大な神殿の建立を要求し、受け入れられた。この神殿は、現在の杵築、つまり出雲大社のある場所に建てられたという。



 以上が『古事記』に描かれた「オオクニヌシの国譲り神話」の概要である。『日本書紀』に記載されたオオクニヌシの物語は詳細において若干異なるが、国譲りの基本ストーリーは同じである。ただし『日本書紀』の方は、このあとにもう一度、出雲を征伐する事件が登場する。それは、神話ではなく「史実」として語られている記事で、崇神天皇の六十年に起きている。
 あるとき天皇が、
「タケヒテルノミコト(武日照命)の、天からもってこられた神宝を、出雲大神の宮に収めてあるのだが、これを見たい」
 と、出雲に対し神宝の献上を要求した。タケモロスミ(武諸隅)という者を遣わしてこの命令を出雲に届けさせたとき、神宝を管理していたイズモフルネ(出雲振根)は筑紫に行って不在だったが、弟のイヒイリネ(飯入根)が独断で神宝を天皇に献上してしまった。筑紫から帰ってこのことを聞いたイズモフルネは、
「数日待つべきであった。何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」
 と激怒し、弟のイヒイリネを騙し討ちにして殺した。イヒイリネの弟のウマシカラヒサ(甘美韓日狭)が、これを朝廷に訴えたところ、天皇は怒り、キビツヒコ(吉備津彦)とタケヌナカワワケ(武淳河別)に命じて出雲征討軍を編成させて攻め込ませ、イズモフルネを誅殺した。
 「国譲り」と「イズモフルネ」の二つの事件が、まったく別のものなのか、それとも同じ出来事を繰り返して象徴的に描いているのかはわからないが、『古事記』や『日本書紀』が語る出雲の事件は、いずれも大和政権が出雲を攻略し、その支配者を殺して国を奪ったことを示している。「国譲り」とはいうものの、事実上は攻略、奪取である。
 『古事記』の成立が七一二年(和銅五)、『日本書紀』が八年後の七二〇年(養老四)で、これら二つのいわゆる「官選」ではなく、出雲在住の人々が出雲九郡の風土や物産、伝承などをまとめた『出雲風土記』は、さらに十三年後の七三三年(天平五)に成立している。
なぜわずか八年の間をおいて『古事記』と『日本書紀』が書かれたのかは謎のままであるし、『出雲風土記』に収められた神話の内容は先の両書と異なる。ということは、見方を変えれば、これらの書に記された国譲りの物語の信憑性がどれほどのものかという疑念につながる。これらの謎には、おそらく当時の天皇家や最大の権力者である藤原家などが複雑に絡んでいるのだろうが、そのことは本書のテーマではないので、「謎の提起」だけにとどめておきたい。ただはっきりいえることは、たとえそれらの書が虚構に満たされたものであったとしても、まったくの「無」から作り出されたわけでもないだろうから、少なくとも出雲という国が大和政権によって滅ぼされたということは、事実と考えていい。
 出雲という国家がいつごろ大和政権によって滅ぼされたのかは明確になっていないが、『古事記』などが成立した八世紀前半よりはかなり昔であることは間違いない。私は、邪馬台国の時代には、出雲王国がすでに強大な勢力として存在していたと考えている。
 『出雲神話から荒神谷へ』の中で、著者原島礼二は、荒神谷遺跡に銅剣や銅矛、銅鐸が埋納された時期は紀元二世紀から六世紀の間だとし、その場所で、過去二度にわたって摂氏千度に達する炎を用いた大規模な火祭りのようなものが行われたと書いている。その時期は、最初が二五〇年前後で二度目が五九〇年ごろだという。とすれば、第一回目は、卑弥呼が亡くなったとされる「二四七年ごろ」と同時期である。このことと卑弥呼の死が直接の関係をもっているとは思わないが、ここでいいたいのは、卑弥呼が生きていた時代に、出雲には荒神谷遺跡を残すほどの強力な大勢力、つまり出雲王国が存在していたということである。そして私は、この出雲王国こそ、『魏志倭人伝』に邪馬台国最強の敵として描かれている狗奴国だと考えている。なぜなら、卑弥呼の時代に、邪馬台国と対抗できるほどの勢力をもった国といえば、記録に残されている中では狗奴国のほかに考えることができないからである。何かの物的証拠があるわけでもないが、ただそれだけの、いわば「状況証拠」だけで、私は出雲王国が狗奴国だと考えている。したがって、今後の展開については、「出雲王国=狗奴国」という前提に立って進めていくことにする。
 ところで、三世紀から四世紀にかけての出雲の古墳の存在場所は、現在の松江市から安来市にかけての東部地域と、出雲西部の斐伊川流域、つまり出雲大社や荒神谷遺跡のある西部地域の二つに大別され、その中間に古墳はない。これは何を意味するのだろうか。
 邪馬台国が奈良の大和にあったとすれば、私は、古墳のないこの空白地帯こそ、出雲王国=狗奴国と邪馬台国との非武装境界線だったと考えている。のちに大和政権へと名称を変えていった邪馬台国が、その勢力圏の西の端で、強力な軍事国家狗奴国と対していたということである。
 このあたりで、邪馬台国と狗奴国(出雲王国)の成立に関して、私の仮説を述べることにする。
 それに先立って、紀元前の昔に日本に稲作文化を持ち込んだ渡来人たちの「その後の移動と定住の仕方」について、まずは諸説を交えて記してみたい。
 学界では太古から日本列島に住む人々のことを「縄文日本人」と呼ぶ場合が多いようなので、本書でもその名称を使いたいと思う。
 その縄文日本人が、縄文時代の晩期の、さらにその後半を迎えたころ、大陸から「初期稲作文化」が入ってきた。この文化の詳細や呼び方などについては諸説あるものの、ごく大雑把にまとめてみれば、これが、いわゆる「弥生文化」である。この初期稲作文化(=弥生文化)は朝鮮半島を経由して日本にやってきたが、その一部は、先に述べたように、北方ルートを経て流入してきた。私は、これが北方迂回ルートだと考えている。
 大陸からそのような人々が日本にやって来た理由の一つとして、紀元前五世紀から紀元前三世紀にかけての中国の大戦乱を挙げる説がある。戦国時代と呼ばれるこの時代、七つの強国がたがいに覇権を巡って抗争を繰り返した結果、戦乱による略奪や飢餓に苛まれた多数の人々が中国を脱出して朝鮮半島に逃避し、そこに住んでいた朝鮮半島の人々が玉突き状に押し出されて日本に渡ったという。実際にはそれほど簡潔な図式ではなく、中国の人たちと朝鮮半島の人たちが混じり合いながら順次対馬海峡を渡海したということだろうが、彼らの中には、朝鮮半島に入らず、沿海州を北上し、北部日本海を渡って北海道や北東北にやって来た人々も多数いた。
 そして、朝鮮半島を経由して北九州に入った人々の多くは、先住の縄文日本人と平和裡に融合しながら、比較的早いスピードで瀬戸内海を東に進んで近畿に入ったが、それから先には、なかなか進むことができなかった。おそらくこの地域に先住していた縄文日本人の抵抗が並外れて強かったからだろう。その証拠に、縄文時代としては数少ないとされる殺傷人骨が渥美半島(現在の愛知県)の伊川津貝塚などから集中して出土していることが挙げられる。これは、相対する二つの集団が激しく戦った痕跡であるという。
 初期稲作文化の人々が右のような地理関係に定住していたということは、弥生時代前期の土器の総称である「遠賀川式土器」の分布によって証されている。かつてこの土器の文化圏は、濃尾平野から能登半島にかけてのラインが東限とされていたが、近年になって、東北地方で次々と発見されるようになった。ただ、濃尾平野と東北の間を画する土地ではこの種の土器の分布は極端に希薄になっているから、このことから、初期稲作文化の人々は、東北以北と濃尾平野以西に定住していたことがわかるのである。さらに、東北地方に分布する遠賀川式土器は、西日本のそれとよく似てはいるがまったく同一のものではなく、淵源を同じとする大陸系のものだとされているから、この土器は、西日本に定住した人々が運んだものではなく、もともと大陸で発生した同じ土器様式が、彼らとは別ルートである北方ルートを経由して持ち込まれたということになる。
 私の仮説は、以上のことを出発点としている。
 朝鮮半島から対馬海峡を渡ろうとした初期稲作文化の人たちは、晴れた日には対馬が遠望できることから、その渡海にはさほどの危険性が伴うとは思わなかった。しかし、丸木舟程度の小さな船に分乗して漕ぎ出した彼らのうち、かなりの者は対馬海流に流されて日本海に迷い出て、広大な海に飲み込まれて命を落とした。うまく対馬海流に乗って山陰沿岸から能登に漂着した者は幸運だったといわざるをえない。遥かな北方を迂回するルートの存在も聞き知ってはいたが、一日も早く大陸から逃げ出して新天地を求める人々には、他に選択の余地はなかったし、本当に北方迂回ルートが安全な航路かどうかを確認する術もなかった。何よりも、対馬が手の届くほどの距離に見えるという事実は、海流の危険性など度外視した行動を取らせたのである。
 そのようにして対馬海流を乗り切って無事北九州に上陸した人々の多数は、先住の縄文日本人と平和裡に融合しながら瀬戸内海を東に進み、四国や山陰にも定住の地を求めたが、中核を成す集団は吉備の地に留まった。現在の総社市や岡山市を中心とする広大な平野が大規模の集落を形成するのに適しているし、稲作の環境としても優れていると判断したからである。また、彼らの先遣部隊ともいうべき一団は、さらに東に進んで近畿に入った。
 また、対馬海峡を渡り切れず、対馬海流に流されて山陰地方に漂着した人たちのある部分はそのまま山陰の各所に定住し、他は、九州から東進してきた「同族」と合流して吉備に入り、ある集団は東に向かって進んだ。
 そのようにして畿内まで順調に歩んできた初期稲作文化の人々は、さらに東に進んだところで初めて、先に述べたように縄文日本人の激しい抵抗に遭ったのである。そして、濃尾平野から能登半島を結ぶ線を境界線としてそれ以上の東進をやめ、九州から近畿までの地域に広く根づくことになった。ここまで彼らの牽引力となってきた首長的存在の集団は吉備に土着し、やがてこれが邪馬台国の原型となる。時期は、紀元前一世紀の中ごろのことだと思われる。『古事記』や『日本書紀』で語られる神武天皇の東遷の記事は、これらの記憶をもとにして作られたものだろう。
 一方、北方迂回ルートを選択した人々は、それを判断するに際して、対馬海流を渡海することの危険性を伝え聞いていた。もっとも、日本に行こうとしていた者のほとんどはそのことを知っていただろうが、どちらのルートを選択するかは、個人の考え方によって異なったはずである。先に述べたように、とにかく「一日も早く渡海したい」と乞い願った者は、対馬海流の危険性を知りながらも、遠くに見える対馬の姿を見て、「この距離なら行ける」と判断した。他方、対馬海流の脅威を恐れ、少しでも安全な道を求める人々は、長時間の行程を覚悟して北方迂回ルートを選んだ。そして彼らは、沿海州を北上し、カラフトから北海道に入ったあと、北東北まで下がったあたりで、縄文日本人の抵抗に遭って、南下をストップした。
 したがって、この時点の日本列島は、濃尾平野の東端から秋田や青森の南あたりまでの広大な地域に縄文日本人が勢力を張り、それを挟んだ北方と近畿以西に、先住の縄文日本人と融和した渡来人が根を下ろしていたという構図になる。
 やがて、九州から近畿にかけての人口の集中した土地ではいくつかの邑や国が造られ、彼らの首長格として吉備に土着した人々は邪馬台国の原型を形成して、それらの国々を統括した。これが紀元前一世紀前半のことだろう。
 以上のように、九州に渡ってきた「先発組」ともいうべきこれら初期稲作文化の人々の大半は東進し、その核になる集団は吉備に入って邪馬台国の原型を造ったが、中には九州に残った人々もいた。彼らは少数派だったから、多数の人々を統率するための邪馬台国のような強固な権力構造を作る必要もなく、ごく自然発生的に、九州の北部を中心にして、生活や農耕の必要性から、先住の縄文日本人と融合しながら、国あるいはそれに近い集合体を形成していった。もちろん、その過程で幾たびかの戦争はあったが、さほど規模の大きなものではなかった。
 ところで、大陸から渡ってきた初期稲作文化の人々と平和裡に融合し、ときとして激しい戦闘を交えた縄文日本人とは、どのような人々だったのだろうか。ごく一般的には「縄文人は平和を好み、戦争をしない」という認識がある。それは、弥生時代の古墳や遺跡から多数の殺傷人骨が発掘されているのに対して、縄文時代のそれからは、ほとんど発見されていないからである。だから、縄文人は戦争を嫌うというイメージが定着しているのだが、先に述べたように、少数例ではあるが、渥美半島には縄文時代の殺傷人骨が集中しているから、彼らとて、自分たちの領域に武力をもって踏み込んでくる敵に対しては、武器をとって果敢に戦ったのである。渥美半島以外にそのような人骨が発見されていないことを思えば、この付近に進んできた初期稲作文化の勢力がよほど威圧的な姿勢を取ったのか、それともこの地域の縄文日本人たちがよほど新しい勢力を受け入れない保守的な性格をもっていたということだろう。
 近年の考古学的発見は、過去の縄文文化の考え方に大きな修正を加えることになった。とくに、青森の三内丸山遺跡の発掘は、これまでの概念とは違って、縄文時代の人々がいかに高度に組織された社会を形成し、進化した文化をもっていたかを証することになった。そこには、原始的な狩猟採集を中心とした文化ではなく、もっと進化した社会構造が存在していたのである。この遺跡は縄文時代の中期というから、紀元前四世紀以前のものだが、その時代にしてすでに既成概念を覆すほどの高度な社会を運営していたわけだから、初期稲作文化の人たちが大陸から渡来してきた紀元前後の時代には、両者の間に日常に使用する道具などの技術的な差はあったにしても、社会や文化の面においては、さほどの差はなかったはずである。その時代、三内丸山の文化はすでに衰微していたかもしれないが、それと同等かそれ以上の規模のコミュニティーが日本全国に散在していて、稲作という先進文化をもつ渡来人たちを、穏やかに受け入れていった。ただし、いったん渡来人たちが武力で圧迫を加えようとすれば、たちまち全力を挙げて戦う。そのような人々だった。
 「後発組」ともいうべき新しい勢力が大陸から渡来するのは、吉備で邪馬台国の原型が成立しつつある紀元前一世紀前半のことと思われる。
 中国の戦国時代は秦の始皇帝の全国統一によって終焉を迎えたが、支配者や政治体制は変わっても悪天候や飢饉までが収まることはなく、猛烈な飢餓と貧困が間断なく人々を襲った。秦が滅びて漢の時代になってもそれは変わらず、その惨況に耐えかねた人々の中から、中国を逃げ、朝鮮半島に食を求めてやって来る者がいたし、彼らの勢いに押し出されるようにして新たに半島を出た人々もいる。
 後発組の人々は、すでに土着していた先発組や縄文日本人たちを押し潰すような勢いで制圧し、九州北部を支配した。この時代の福岡や長崎の遺跡から、石剣の切っ先が胸椎に刺さったり、頭頂部に銅剣の切っ先が刺さった遺体が発見されているのは、この激しい戦闘を証拠立てている。
 一方、対馬海流に流されて海峡を渡り切れず、山陰地方に漂着した人々は、島根半島を中心とする山陰海岸に上陸し、土着勢力を支配下において出雲王国=狗奴国を造った。彼ら「後発組」の渡来人はいわば新参者で、おそらくは領土の線引きや食料問題などで、すでに山陰に拠っていた邪馬台国傘下の勢力と対立し、やがて出雲のすぐ東の地域を境にして敵対するようになった。あるいは「先発組」である邪馬台国が、新参の出雲の人々に対して臣従を強要したために、対立関係に陥ったとも考えられる。
 この時点の邪馬台国の前身はまだ吉備を中心とした地域に展開していたのだが、より広大な国土を得るために、先遣の一団が移住していた大和への移動を実行しようとしていた。
当初からその計画だったのだが、ここにきて後発組がはっきりと敵対の姿勢を見せ、圧力を加え始めていたから、安全を期して畿内への移動を加速させたのである。後発組の中でも九州の勢力はまだしも、出雲勢力は、中国山地を挟んだすぐ近くに位置しているから、この脅威はあなどれない。
 この動きを見て取った後発組は、邪馬台国とその傘下の人々への圧迫をさらに強めて出来る限り遠くへ追いやろうと考え、果敢に軍事行動の気配を見せた。瀬戸内海から四国、近畿に展開する邪馬台国以下の諸集団は、後発組の侵攻に備えるため、全集落を丘陵地や山裾などの高地に移し、外敵の侵入を監視する体制を作った。これが「高地性集落」と呼ばれるもので、時期は紀元一世紀の前半のころである。
 やがてこの世紀の後半になると、邪馬台国連合の中核をなす吉備の支配層の人々は、いよいよ本格的に畿内への移動を実行に移すべく、近畿から濃尾平野、能登にかけて展開している先遣の集団に対し、畿内勢力の完全掃討を指示した。もし畿内に不穏な動きを見せる縄文日本人たちがいれば、これを完全に服従させるために武力をもって制圧するのである。この軍事行動は、おおむねさほどの抵抗もなく進んだが、ときとして激しい戦闘が行われたこともあった。
 このようにして畿内平定が完全に終了した二世紀の前半、いよいよ邪馬台国の原型を成す人々は吉備から畿内に移動し、その本拠を奈良盆地に定めて、国号を邪馬台国と称した。ここに、畿内を中心とする邪馬台国連合の原型が出来上がった。
 このとき、一連の動きを捉えた後発組の人々は、吉備の主力が畿内に移ったために勢力の薄まった瀬戸内海を支配下に治めようと、そこに散在する邪馬台国連合の人々の集団あるいは小さな国々を武力制圧する構えを見せた。また出雲の狗奴国は、遠く能登に船団を派遣して、その地を占領しようと、軍事行動に出た。瀬戸内海の人々は、なにしろ邪馬台国が吉備を捨て、遠方の畿内へと去ってしまったから、いかに攻守同盟を結んでいようとも、九州の諸勢力や出雲の狗奴国の攻勢の気配に脅威を感じ、その脅威はやがて邪馬台国への疑心暗鬼に変貌し、「いっそ九州や出雲につくか」という「変心」に結びついた。やがて邪馬台国連合の国々は、このような不安定な状況のなかで互いの腹を探り合うといった大混乱に陥り、ついに邪馬台国と、後発組の出雲や九州の勢力圏の二つを核とする戦乱の世に突入していった。これが『魏志倭人伝』に、
「その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年」
 と記されている戦乱状態である。
 やがて「七、八十年」の戦乱のあと、邪馬台国の女王に卑弥呼を立てたことによって、ようやく争乱は収まった。しかしそれは、邪馬台国の武力による平定ではなく、卑弥呼のもつカリスマ的な呪術を崇敬するあまりに、後発組の勢力が敬意をはらったうえでの休戦だったから、長年の攻伐によって国の数は百余から三十に減少したものの、狗奴国や九州など邪馬台国に敵対する勢力は、依然として武力を温存したままだった。このような不安定な状況下で再び先発組の諸国家を統括する地位についた邪馬台国は、北方迂回ルートで北海道と北東北に渡ってきた「同族」の人々とも、日本海の海路を用いて同盟関係のような密接な交流を続けた。
 一方、狗奴国や九州勢力は、いったんは休戦したものの、いずれは迎えるであろう邪馬台国との決戦を念頭に置いて、勢力を強化するために、その出発地あるいは故郷である朝鮮半島南岸の人々とも連携を強めた。結果としてこのような状況は、朝鮮半島南岸の、やがて伽耶(かや)国になる弁韓から北九州、出雲にかけての、対馬海峡を挟んだ一つの大きな勢力圏を形成することになった。その強大な新参勢力圏が、やがて再び本格的に東の邪馬台国連合と抗争し、北は朝鮮半島の辰韓や馬韓と対立することになる。この「後発組」の勢力圏を「出雲・九州勢力圏」と名づけたい。
 北九州勢力と出雲の狗奴国が同盟関係にあったということは、前述した『日本書紀』のイズモフルネ(出雲振根)の記事が示唆している。それは、崇神天皇が、タケヒテルノミコト(武日照命)が天からもってきた神宝が出雲大社にあるので、それを見たいと、出雲に対して神宝の献上を要求したときのことである。天皇の使者が出雲に赴いてこの要求を出したとき、出雲国主であるイズモフルネは「筑紫に行っていて不在」だった。ということは、出雲は筑紫、つまり北九州の国々と、ごく近しい関係にあったことを物語っている。言い換えれば、同盟関係にあった。このことから、私は「出雲・九州勢力圏」の存在を想定したのである。
 彼らは、対馬海峡を挟み頻繁に情報を交換して結びつきを深め、邪馬台国連合への備えを固めた。といえばいかにも広大な領域を思わせるが、実際には弁韓と北九州の間は二百キロ程度にすぎないし、出雲と関門海峡の間も二百五十キロほどでしかなく、邪馬台国連合の領域に比較すれば、さほど大きな規模ではない。一つの問題は、弁韓と北九州の間に航海危険度の高い対馬海峡が横たわっていることだが、このような軍事同盟の性格をもつ交流は、たとえ危険を伴ったとしても、時間を最優先にしなければならないから、彼らは対馬海流の渡海を敢行した。それに、彼らの祖先は、すべてそのような危険を冒してこの海峡を渡ってきていたから、この「危険」は、彼らの意識の中ではほとんど常識のようになっていただろう。だから彼らの頭には、北方迂回ルートという、あまりに迂遠な航路を検討する余地すらなかったし、もし仮にそれを敢行しようとしても、出雲の東から能登にかけて、さらには北東北・北海道に至る長大な邪馬台国連合の沖合いを航行しなければならないから、危険このうえないルートだったのである。それなら、同じ危険があっても、彼らの内海といっていい対馬海峡を渡った方がいい。おそらく彼らは、何隻かが対馬海峡に流されて漂流・遭難することを覚悟のうえで、毎回数隻以上の規模の船団を組んで航海に踏み切ったことだろう。
 同じことは邪馬台国側についてもいえることである。もし邪馬台国から魏への緊急連絡の必要が生じた場合には、どうしたのだろうか。そのときも北方迂回ルートを使って、対馬海峡は一切渡海しなかったのだろうか。そうではないと思う。
 魏から邪馬台国に向かう魏使や、邪馬台国から魏に向かう使者のような国家最高の使節の場合は何よりも安全を最優先にしなければならないから、北方迂回ルートという長時間を要する道を採るが、実際にはそれ以外に、軍事上の情報伝達のために実務推進者レベルの使者を発したことは十分に想定できるし、もしそれが緊急を要するものだとすれば、おそらく危険を冒して狗奴国の盤踞する山陰の沖合いを西行し、対馬海峡を渡海して朝鮮半島沿岸を北上しただろう。
 これまでは、大陸から渡来してきた人々の全般的な動きを俯瞰してきたが、今度は、この情勢を邪馬台国側の視点から観察してみよう。
 まず、濃尾平野と能登半島を結ぶラインの東には縄文日本人勢力が広大な領域を支配しているが、そのさらに後方の北東北には、同族の「先発組」の渡来人が縄文日本人と融和して控えているから、巨視的に見れば、むしろ東国の縄文日本人勢力を南北から挟み込んでいるような図式になっている。このことは、先に述べた「遠賀川式土器」の分布をみても明らかである。
 もっとも、縄文日本人勢力といっても、各地に大小規模のコミュニティーが散在している程度の状況だから、綿密な横の連携はとれていない。もちろん、物資交換や交易などの目的でのつながりはあっただろうが、「縄文日本人国家」といったようなものは存在しないから、彼らが密な連携をとって全体行動を起こすことはない。ただ、かつて渥美半島付近で行われたように、邪馬台国や北東北の同盟圏が侵攻しようとする気配を見せると、全力を挙げて挑みかかってくることは間違いない。したがって邪馬台国としては、縄文日本人勢力に対しては、あくまでも平和外交を貫く。そのような戦略を採る限り、彼らとの戦争状態は回避できる。もちろん、いずれは彼らの住む東国から東北にかけての地域を支配下に置かなければならないが、それは出雲・九州勢力圏を滅ぼしてからでいい。
 ところが、西に対峙する出雲・九州勢力圏という、好戦的ともいえる敵に対しては、そのような平和戦略を採ることはできない。あくまでも武力対立の道を進むしかない。しかも、彼らの武力は決してあなどれないし、もし弁韓、九州勢力、狗奴国が総力を挙げて邪馬台国連合の西端に侵攻してくれば、真正面から全面交戦しなければならず、その戦争に必ず勝てるという保証はどこにもない。
 このような状況において、邪馬台国が採るべき大戦略は一つしかない。それは、朝鮮半島のさらに後方の大勢力である魏と結ぶことである。
 卑弥呼が魏に使節を送って臣従の意を表した理由は、ここにあった。
 「後発組」として日本にやって来た出雲・九州勢力圏は、日本列島における覇権を狙って、虎視眈々と邪馬台国を睨んでいる。その彼らを後方から牽制するためには、大陸の強力な同盟国が必要であり、それを魏に求めたのである。もし邪馬台国が魏と同盟関係を結ぶことができれば、出雲・九州勢力圏が本格的に邪馬台国に戦争を仕掛ける気配を見せた場合、複数の船による船団を編成し、緊急の使者を乗せて山陰沖を西方に走らせ、対馬海峡を渡って帯方郡に報告する。途中、何隻かが遭難しても、最終的には一隻がたどり着けばいい。そして、これを受けた魏は、朝鮮半島に兵を繰り出して、背後から弁韓を襲うことになる。そうなれば彼らとしても軽々に動くことはできないだろう。そのような、「後方の牽制力」を求めるために、卑弥呼は魏に臣従する道を選んだのである。臣従とはいえ、事実上は軍事同盟といっていい。
 一方の魏にとっても、すでに述べたように、この戦略は歓迎すべきものだった。
 西南に蜀、南に呉という二国の強敵と抗争していた魏は、北東の背後の高句麗とも敵対関係にあった。蜀や呉より武力は劣るものの、いまや朝鮮半島を支配する勢いを見せている高句麗は、侮りがたい相手といってよかった。したがってこの時点の魏は、朝鮮半島を除く全方位を敵に取り囲まれていたことになる。幸いにも、魏の東に位置する朝鮮半島だけは、馬韓や辰韓、弁韓といった弱小の国々が並立していて、いまのところ魏と抗争する姿勢は見せていないが、もし出雲・九州勢力圏の一部である弁韓が呉と結び、出雲と九州の後押しを得て本格的に辰韓や馬韓を攻め、朝鮮半島を北上してくれば、その先にある魏への影響は避けられない。やがては辰韓や馬韓を滅ぼし、呉と連携して魏を挟撃してくるかもしれないのである。そうなれば、魏としては多大な資源と兵力を東方にも向けることになって、国力の疲弊は避けられないし、最大の敵である蜀と呉に向ける戦力の弱体化につながる。だから、卑弥呼からの朝貢は、魏にとっても非常に大きな利益を期待できることだった。もし弁韓が北上の意欲を現実化しようとした場合、出雲・九州勢力圏の背後に控える邪馬台国が「後方の脅威」として出雲や九州に攻めかかって、勢いを削いでくれるからである。魏と邪馬台国との同盟は、右のような複雑で微妙な勢力均衡の情勢下において、両国にとってじつに有益なものだったのである。
 このような魏が抱いていた危機感は、古代における倭と朝鮮半島の関わりを見ても理解できる。
 現存する朝鮮最古の史書とされる『三国史記』は、高麗の仁宗の命によって一一四五年に成立したもので、新羅、高句麗、百済の歴史を描いている。その中の『新羅本紀』の記録をまとめてみると、まず紀元前五十年に、倭人が兵を率いて辺境を侵そうとしたという記録があって、これ以後、倭は再三にわたって朝鮮半島に攻め込んでいる。紀元一世紀以前には三回、紀元二世紀に二回、三世紀に七回、そして馬韓が百済に、辰韓が新羅に、弁韓が伽耶(かや)に国名を変える四世紀には五回を記録している。さらに、五世紀には十六回となっていて、六世紀になってはじめて0回となる。このうち最も回数の多い五世紀というのは、四一四年に建立された高句麗の広開土王の碑文に見られる大規模な戦闘が行われた時期で、倭が百済と組んで高句麗、新羅連合軍と再三にわたって戦い、敗北した世紀である。
 この中で、『魏志倭人伝』に関係する三世紀には、二番目に多い「七回」を記録している。これは、朝鮮半島南端にある弁韓が、北九州から出雲まで広がる出雲・九州勢力圏の北端に位置していたから、ここを拠点にして、「倭国の軍」も擁して北の馬韓や辰韓と戦ったものと、私は考えている。倭の軍がともに行動していたから、「倭国」の侵攻と記されたのである。そのような経緯もあるのだろう、この弁韓はのちに伽耶国となり、倭ではそれを任那(みまな)と呼び、日本府が存在するとした。
 このような状況だから、魏としても、弁韓と出雲・九州勢力圏の北上意欲は十分に察知していた。だから、彼らの背後を牽制するために、卑弥呼と軍事同盟を結んだのである。
 先に述べたように、私の考えでは、卑弥呼の時代の出雲の国名は、邪馬台国最大の敵である「狗奴国」だった。このことについて、いま少し掘り下げて考えてみたい。

 『魏志倭人伝』には、邪馬台国に到達したあとの記事として、次のように書かれている。

「次に斯馬国有り、次に己百支国有り、次に伊邪国有り、次に都(郡)支国有り、次に弥奴国あり、次に好古都国有り、次に不呼国有り、次に姐奴国有り、次に対蘇国有り、次に蘇奴国あり、次に呼邑国有り、次に華奴蘇奴国有り、次に鬼国有り、次に為吾国有り、次に鬼奴国有り、次に邪馬国有り、次に躬臣国有り、次に巴利国有り、次に支惟国有り、次に烏奴国有り、次に奴国有り。これ女王の境界の尽くる所なり」

 と、邪馬台国に従う二十一の国を挙げているが、いずれもが距離と方角が記されていない。これらの国は、その直前の一節に、
「女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳(つまびら)かにすべからず」

 と記されているように、魏使が訪れたことのない遠隔の国々である。そしてその最後に、邪馬台国連合の領域の境界に位置する国として奴国を挙げている。この国名は、邪馬台国への行程の途中に一度登場するが、それとは異なる国である。一説によれば、●奴国といったように、上の一文字が欠落したのだろうというが、そのあたりの真相はわからない。ともかく、奴国という一国家が、邪馬台国連合の最前線に位置していた。右の、「次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり」
 のすぐあとには、
「その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗(くこちひく)あり。女王に属せず。郡より女王国に至る万二千余里」
 の一節がくる。ということは、狗奴国は奴国の南に接していたということである。
 先に述べたように、三世紀から四世紀にかけての出雲の古墳は、現在の松江市から安来市にかけての東部地域と、出雲西部の斐伊川流域、つまり出雲大社や荒神谷遺跡のある西部地域の二つに大別されていて、その中間地帯に古墳はない。繰り返すようだが、私は、この古墳のない中間地帯こそ、西に狗奴国(出雲)、東に邪馬台国連合を隔てた非武装境界線であると考えている。そして、その邪馬台国側の最西端、非武装境界線に接する地域、つまり「これ女王の境界の尽くる所」に奴国があったと考えている。
 ただ、もしそうだとすれば、現実の出雲は奴国の「南」ではなく「西」にあるわけだから、『魏志倭人伝』の「その南に狗奴国あり」の記述に表現された両国の位置関係に矛盾が生じることになるが、これについては、このすぐあとに触れる。
 さらに仮説を続けたい。
 井上光貞は『国造制の成立』の中で、「まだ論証されていない」と前置きしながらも、当時の出雲には「オウ(意宇)」と「キヅキ」の二つの勢力(文化圏=政治圏)があり、「オウ」は大和朝廷と結んで「キヅキ」を征服したであろう、と書いている。キヅキは杵築で、要するに出雲大社のある一帯のことで、私が狗奴国と考えているところである。またオウは、松江から安来にかけての、私が奴国があった場所と考えるところである。つまり、オウが大和朝廷と結んでいたということは、とりもなおさず奴国と邪馬台国が結んでいたことを想定させる。そして両国が連携して杵築の狗奴国を征服した。もっとも、実際の狗奴国は、『魏志倭人伝』の時代にはまだ滅んではおらず、邪馬台国と停戦したことになっているから、のちになって攻め滅ぼされたのである。
 ところで、『魏志倭人伝』の記事の書き方から察するに、奴国というのは、さほど規模の大きな国ではなさそうである。どちらかといえば、「その他二十一ヵ国の一つ」でしかないという印象で、存在感は薄い。奴国が前述の「オウ(意宇)」だとすれば、「オウ」という名は島根県東部、松江近郊の旧意宇(オウ)郡から取っているとされるから、所詮はその規模の大きさだったのだろう。ということは、「オウ」は松江平野から米子平野にかけての海に面した平坦地一帯を領する小国で、その南の背後に迫る中国山地は、狗奴国の支配下にあった。つまり、先ほどの「狗奴国と奴国の位置関係の矛盾」については、これで解決することができる。狗奴国は、奴国の西の非武装境界線に面していたと同時に、奴国を囲い込むようにして、南にも位置していたといえるからである。
 ともかく、そのような小さな国が、いかに邪馬台国連合を構成する一国家だとしても、最前線で大国狗奴国と対峙することができたのだろうか。難しいだろう。奴国の後ろには、狗奴国と肩を並べるほどの強力な国が存在していたはずである。
 そこで私は、奴国の背後、つまり東側、現在の鳥取県から兵庫県北部にかけて、いい換えれば伯耆から因幡、但馬にかけての地に、投馬国があったと考えている。この国は、邪馬台国の戸数が七万余だったの対して「五万余」もあったというから、よほどの大国である。この規模なら、邪馬台国の前線で奴国をバックアップしながら、強国狗奴国と対峙することができただろう。おそらく奴国は、投馬国の前線基地の役割を果たしていたと思われる。もし狗奴国が境界を侵して戦いを挑んできた場合には、とりあえずは奴国が全力を賭して防戦し、同時に投馬国に急使を発して、応援を求めたものと考えられる。
 では、なぜこれが投馬国なのか、そのことについて述べたい。それを検討するに際してひとつのヒントがある。
 先に述べたように、『日本書紀』の中に、「天日矛(アメノヒボコ)が妻を追って難波へ渡るとき、海の神が立ち塞がったから、仕方なく但馬国に入港した」
 という意味のことが書かれている。天日矛というのは、新羅の王子とされる「神」で、日本に逃げた妻を追って朝鮮半島からの渡海を実行する。したがって、新羅から渡来した人物であることは間違いない。その曾孫は、菓子の神「タヂマモリ」とされる。
 これに関連して、『古事記』の応神天皇の項には、次のように記されている。
「また昔、新羅の国王の子ありき。名は天之日矛といふ。この人参渡り来ぬ」
 また、高木彬光の『古代天皇の秘密』には、その天日矛が渡来した年代が、
「魏志が邪馬台国に来た三世紀半ばよりも以前のことと思われる」
 と書かれている。そして、天日矛は北九州に上陸せず、対馬海流に流されて但馬に上陸した。但馬といえば、現在の兵庫県北部である。
 私は、この天日矛こそ、投馬国を築いた人物だと考えている。なぜなら、七一三年(和銅六)の詔に応じて播磨国から撰進された『播磨風土記』に、天日矛がオオクニヌシ(大国主命)と土地を奪い合って争ったことが書かれているからである。それは、土着の出雲民族と渡来人である天日矛との勢力争いの記憶が書き記されたものといわれているが、その真偽はさておき、天日矛が出雲と敵対関係にあったことは、かなりの確率で事実のようである。
 天日矛はオオクニヌシの出雲=狗奴国と争っていた。それは、彼が「新羅の王子」という高位の人で、それを支えるほどの武力を持っていたからこそ可能だった。それほどの人物が建てた大きな国といえば、邪馬台国連合の中では投馬国しか考えられないし、そうだとすれば、天日矛の漂着場所が但馬だったことから、投馬国の場所は、狗奴国の東の鳥取以西、つまり伯耆、因幡、但馬という広域にあったと考えられる。
 さらに、同じ朝鮮半島でも、彼の出身は新羅である。ただ、新羅という国家が成立したのは紀元三五六年だから、卑弥呼の時代には存在しない。だから、その前身である辰韓からやって来たのだろう。この国は、朝鮮半島南端の弁韓とは敵対関係にあったから、日本に来た天日矛が、弁韓の同盟勢力である九州や出雲と敵対するのは当然のことである。おそらく彼は、既存勢力である邪馬台国と友好関係を保持しながら、あるいは邪馬台国の承認を取りつけながら、さらにいえば邪馬台国の傘の下で、勢力を拡大していった。なぜなら、邪馬台国にとっても、天日矛のような強力な勢力は、邪馬台国連合として出雲・九州勢力圏と同等以上の武力を維持するために必要な存在だったからである。しかも都合のいいことに、天日矛の地盤は、邪馬台国と狗奴国の中間の但馬を中心にしているから、対狗奴国の堅牢な盾の役割を果たしてくれるだろう。願ってもないことだったに違いない。
 その思惑通り、天日矛は、投馬国を建てたあと、西の大国狗奴国との最前線に最も近い場所で、邪馬台国連合の「西の抑え」として重要な役割を果たすことになった。
 ところで、『魏志倭人伝』には投馬国の位置が記されているが、その記述が、私が右に述べたような位置関係に収まるのかどうか、その検証については、第二部で北方迂回ルートの詳細を語るときに譲りたい。
 出雲とその関連の事柄について、私の仮説を長々と述べてきたが、なぜ出雲の存在が、魏使が北方迂回ルートを選択する理由のひとつになるのか、そのことを結論づけなければならない。
 右に述べたように、弁韓と北九州、出雲は同盟して邪馬台国連合に敵対していた。つまり弁韓は、これから魏使一行が行こうとしている邪馬台国の敵国である。そして、対馬海峡に出るためには、まずはその弁韓の厳しい監視をすり抜けなければならない。また、たとえ対馬海峡に出ることができたとしても、邪馬台国の敵国である北九州のどこかに上陸することは考えられない。さらに、もし魏使一行が、天日矛が体験したように、対馬海流に流されて日本海を東進したとしても、うまく但馬まで流れて投馬国に漂着すればいいが、万一途中の島根半島あたりに流れ着けば、そこは、やはり狗奴国(出雲)であり、一行は、これから訪ねようとしている邪馬台国の最大の敵国に上陸することになる。それでは一国を代表する皇帝の使者としての役目を果たすことはできないし、ひょっとすれば何らかの危害を加えられるかもしれない。そのような危険を冒してまで、対馬ルートを選ぶことはないはずである。
 以上の理由により、私は、魏使にとっても邪馬台国にとっても、対馬ルートはまったく安全な航路ではなかったと考えている。二三八年(景初二)、二四三年(正始四)、二四七年(正始八)の三回にわたって実行された邪馬台国から魏への使節も含め、両国の使節が採ったルートは、すべて北方迂回ルートだったと考えるのである。
 以上の状況をまとめた地図(■図1:邪馬台国と出雲・九州勢力圏、■図2:東アジア勢力分布図と北方迂回ルート)を参照願いたい。


■図1:邪馬台国と出雲・九州勢力圏
図1.邪馬台国と出雲、九州勢力図


 私はここまで、本書で一貫して「邪馬台国がのちに大和政権になった」と繰り返してきたが、この考え方についても、多くの異論がある。そこで、第一部の最後にあたって、このことについての一つの傍証を述べておきたい。
 かつて埼玉県行田市にある稲荷山古墳を訪れたことがある。「金錯銘鉄剣」と名づけられた国宝の鉄剣が発掘されたことで有名な古墳である。これは、鉄の剣の両面に金象嵌で文字を刻んだもので、この古墳の被葬者の持ち物としてその脇に埋納されていた。被葬者は乎獲居(おわけ)の臣という人物で、金の文字には、彼の代に至るまでの七代の先祖の名を連ね、
「先祖代々、杖刀人(じょうとうじん)の首(かしら)として大王に仕えてきた。乎獲居自身は、大王が天下を治めるのを助けた」
 という旨のことが書かれている。杖刀人の首とは大王の親衛隊長とでもいうべき軍人職である。
 この古墳の様式は、大和政権の象徴である前方後円墳で、剣に記された「辛亥年」から類推すると、剣が製造されたのは西暦四七一年になるという。つまり、乎獲居の先祖が仕えてきた大王というのは、古墳の様式が示すように、大和朝廷の王、つまり天皇だった。しかも七代前からという。七代というのはどれほどの年月を表わしているのかはわからないし、人の生命に左右されることだから一概にはいえないが、たとえば各時代それぞれ二十五年にわたって当主を務めたとすると、乎獲居を含めて八代で二百年になる。四七一年の二百年前というと、二七一年である。これは、卑弥呼が世を去った二十年ほどのちのことで、後継者イヨが邪馬台国の勢力基盤を築きつつある時期である。
 稲荷山古墳の被葬者の七代前の先祖が大和朝廷に仕えていたとするなら、それは三世紀後半から四世紀初頭にかけてのことになって、その時代に大和政権に相当するような大勢力といえば邪馬台国以外にありえない。だから私は、邪馬台国=大和政権だと考える。同時にこのことは、邪馬台国が、九州ではなく奈良盆地にあったということをも示しているのである。


■図2:東アジア勢力分布図と北方迂回ルート
図2.東アジア勢力分布図と北方迂回ルート


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  1. 2011/04/09(土) 13:25:22|
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戦乱の邪馬台国~失われた航跡

著者:野村篤
カバーイラスト:皇なつき
発行:亥辰舎
定価:1,500円

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