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戦乱の邪馬台国~失われた航跡

魏使がカラフト経由で邪馬台国にやってきた新説「戦乱の邪馬台国」を公開。

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一-5 帯方郡から倭の北岸、狗邪韓国まで

 次に高句麗。
 のちに新羅、百済とともに朝鮮半島の三国時代を築くことになるこの国は、その中でも、最盛時には満州の南部まで版図に入れるという、最大の領土を誇った大国である。建国は紀元前三七年ごろで、紀元六六八年まで続いた。もとは中国の東北地方から朝鮮半島の北部に分布していた夫余民族が建てた国家とされる。
 魏が公孫淵を滅ぼして帯方郡や楽浪郡を直接の支配下に組み入れたとき、次に対することになったのは高句麗だった。魏は高句麗王に臣従を強いたが、王はそれに応じず、ことごとく抵抗したから、帯方郡陥落の六年後の二四四年(正始五)、高句麗を攻めて首都である国内城を陥落させた。このとき、高句麗の東川王は死地を脱して逃れている。翌年、魏軍は再び高句麗に攻め込み、このたびは南下してウオンサンのある沃沮と穢も降伏させた。魏が、これまで直接敵対関係になったことのないこれら二国を攻めたのは、魏との戦闘にあたって、高句麗王が二国に対し、ともに戦うよう督励していたからだろう。しかし、このときの彼らがどれほど本気で戦闘しようとしていたのかは疑問である。おそらく、カタチだけの共闘姿勢をとっていたのだろう。
 このようにして魏と高句麗の戦闘は終わったが、こののち、東川王が帰還して高句麗を建て直すことをおもえば、二度にわたる魏の攻撃は失敗に終わったといえる。しかし、少なくとも魏が高句麗を壊滅状態に陥れた二四四年(正始五)と二四五年(正始六)の二年間は、高句麗の領土は、朝鮮半島東岸も含めて、瞬間的に魏に奪われていたことになる。
 そろそろ結論を出さなければならない。
 『魏志倭人伝』を見るかぎり、魏使は二度、倭に行っている。その一回目は西暦二四〇年(正始元)で、これは帯方郡が魏の直轄下に入った二年後だった。つまり、魏が高句麗に対して臣従を求めているときであり、それを受け入れない高句麗との間の緊張状態が高まっていた時期である。それに対して、五年後の二四五年(正始六)に派遣された二回目の使節は、瞬間的に高句麗の領土が魏のものになった時期にあたる。このどちらかの使節が、帯方郡から倭に至る旅行の記事を書き残したのだが、第二回目の場合なら、すでに高句麗の勢力は駆逐されていたから、帯方郡からウォンサンまでは難なく行くことができた。
 しかし、もしそれが第一回目だとしても、魏の使節は、何事もなくウオンサンまで行くことができたと思われる。なぜなら、沃沮や穢は高句麗系の民族だったとはいえ、二百キロ以上も離れた高句麗の首都からの支配力は弱く、魏と積極的に敵対することはなかっただろうからである。なんといっても魏は超大国である。その皇帝の使者が強力な軍隊に守られて通過するのに対して、危害を加えることなど、考えも及ばなかったに違いない。もし何らかの危害を加えたとすれば、それに対する魏の報復は苛烈を極めるだろうし、二百キロの彼方から、高句麗王が魏と対抗できるほど強力な援軍を差し向けるとも思えない。もしそれをやれば、高句麗本国の守りが手薄になって、たちまち魏の別働軍に侵攻されるからである。だから沃沮や穢は、表面上はさておき、魏との良好な関係を保持していた。したがって、たとえウオンサンが沃沮や穢の土地であったとしても、魏使一行は何の障害もなく通過できたし、ウオンサンで十分な出航準備をすることもできただろう。
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  1. 2011/07/14(木) 18:09:29|
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Author:亥辰舎いしんしゃ
戦乱の邪馬台国~失われた航跡

著者:野村篤
カバーイラスト:皇なつき
発行:亥辰舎
定価:1,500円

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