FC2ブログ

戦乱の邪馬台国~失われた航跡

魏使がカラフト経由で邪馬台国にやってきた新説「戦乱の邪馬台国」を公開。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

一-3 帯方郡から倭の北岸、狗邪韓国まで

 繰り返すようだが、第一部第四章において、すでに帯方郡の場所を、現在の北朝鮮の首都ピョンヤンの南五十キロに設定するとした。したがって、北方迂回ルートの出発地点は、この場所になる。
 帯方郡を出発した魏使一行は、朝鮮半島の西海岸を南下するのではなく、そのまったく逆の方向、つまり半島を横断して東海岸に出る。先に述べたように、『魏志倭人伝』の記事には、帯方郡からどの方角に向かって出発したのかが記載されていない。方角に関連することといえば、狗邪韓国までの途上で、「韓国を経て」「あるいは南し、あるいは東し」という言葉だけが記されている。だから、ここで魏使一行が東に向かったとしても、『魏志倭人伝』の記述に反することはない。
 帯方郡と朝鮮半島の東海岸の間は山岳地帯に占められている。現在の地図を見ながら東海岸の「港」を探してみると、帯方郡から直線距離で東百五十キロほどの日本海岸に、ウオンサン(元山)がある。港湾というのは、自然の地形をうまく活用して造られているから、近世になって新たに海を埋め立てて建設されたところはべつとして、古代に稼動していた港というのは、詳細な位置を問題にしなければ、まずは現在でも使われていると考えていいだろう。おそらくウオンサンも古代にはそのような港だっただろうし、魏使一行は、このウオンサンから船出したものと思われる。
 しかし、ここで一つの疑問が提出されるかもしれない。帯方郡からの方角はいいとしても、このルートでは『魏志倭人伝』の記述にある「韓国」を経ていないではないかという疑問である。だが、これについても、さほどの問題はない。なぜなら、じつはこのウオンサンそのものが、広義に解釈すれば「韓国」に位置しているからである。
 当時のウオンサンを含む東海岸の一帯は、高句麗系の民族である沃沮(よくそ)や穢(わい)の地だった。そもそも韓国というのは、朝鮮半島の南部に展開していた馬韓、弁韓、辰韓のいわゆる「三韓」を指すが、私は、中国からみれば、朝鮮半島全体が「韓」と認識されていたのではないかと考えている。そしてその西側の付け根に、魏の出先である帯方郡が進出していた。だから、半島の東側にあった沃沮や穢は、高句麗系の民族ではあるものの、中国から見れば「韓」の一員と見なされていた。後年、この地に進出した高句麗が、新羅や百済とともに「三韓」と呼ばれた事実は、すでに『魏志倭人伝』の時代から、ウオンサンのある地域一帯が「韓国」と認識されていた傍証になるだろう。だから、魏使がウオンサンから出航したということは、とりもなおさず「韓国を経た」ことになるのである。
 しかし、そうだとすれば、ここにいま一つの疑問が生じる。それは、魏使一行は、敵対関係にあった高句麗系の沃沮や穢の土地を何ごともなく通過することができたのだろうかという疑問である。さらに、ウオンサンという港を難なく使用することができたのだろうか。
 そのことを考えるために、まずは帯方郡と高句麗の関係がどのようになっていたのかについて述べてみたい。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2011/06/01(水) 17:44:51|
  2. 本文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<一-2 帯方郡から倭の北岸、狗邪韓国まで | ホーム | 一-4 帯方郡から倭の北岸、狗邪韓国まで>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://ishinsha.blog60.fc2.com/tb.php/12-6d12dd8b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

最新記事

プロフィール

亥辰舎いしんしゃ

Author:亥辰舎いしんしゃ
戦乱の邪馬台国~失われた航跡

著者:野村篤
カバーイラスト:皇なつき
発行:亥辰舎
定価:1,500円

最新コメント

検索フォーム

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。