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戦乱の邪馬台国~失われた航跡

魏使がカラフト経由で邪馬台国にやってきた新説「戦乱の邪馬台国」を公開。

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一-6 帯方郡から倭の北岸、狗邪韓国まで

 さて、魏使の出発にあたって、ここではまず彼らの旅行速度を確認しておきたい。そうしなければ、一行が邪馬台国に到達するのに、いったいどれほどの日数がかかったのかが、把握できないからである。彼らの行程は、海上航走と陸上歩行の二つに大きくわけることができるが、その速度がどれほどのものだったのか、また一日にどの程度の距離を進むことができたのか、そこのところを確認しておきたい。しかしながら、じつはこれにもまたさまざまな説があって、なかなか統一した論というのは存在しない。したがって、ここでは過去のいろいろな記録や記述を参考にして推測するしかない。
 まず海上の航走速度についてだが、紀元前五世紀のギリシャの史家ヘロドトスによると、フェニキア人によって紀元前六一三年から二年にわたって行われたアフリカを回航する大航海では、
「千日でアフリカ一周を航走した。その距離、およそ二万三千キロ」
 とされている。これを単純計算すると、一日あたりの航走距離は二十三キロということになる。もちろんこれは、停泊日数や荒天などによる待機期間も含めてのことだから、正確な数値はわからないものの、まる一日の航走距離はもっと長かった。
 日本では、『土佐日記』に、紀貫之が高知から難波まで船で移動したときの航海日数が記されている。それによると、全行程で三十九日かかって、そのうちまともに航走したのがわずか十二日しかなかった。他は、荒天のための待機時間や停泊などだが、それにしても実質的な航走の日数がいかに少ないかということに驚かされる。この間の距離二百八十五キロを航走日数の十二で割ると、一日平均約二十三キロという数値が出てくる。これは、偶然にも右のフェニキア人の航海速度と一致するが、フェニキア人の航海の場合は、停泊日数や荒天などによる待機日数も分母にしているから、実際には『土佐日記』の船の方がかなり遅いことになる。試しにフェニキア人の場合と同じ、つまり全所要日数を分母にして計算すると、なんと一日にわずか七・三キロしか進まなかったことになる。それにしても、全日数の七十パーセントを停泊にあてていたわけだから、よほど天候などの悪条件が重なったのだろう。
 また、茂在寅男の『古代日本の航海術』には、櫓だけを用いて航走した場合、一日に進む距離は二十から二十三キロ程度ではないかと記されている。これは、古代の船がまだ風帆を利用するものではなかったから、人力による櫓だけを動力として試算した。しかも、夜間航走はなかったと想定しているから、昼間航走だけの距離である。
 魏使一行のスピードを考えるうえではあまり参考にならないが、ここに正式な記録として残されている数字がある。
「壱岐から福岡まで船で往復三日、対馬から福岡まで船で往復四日」
 という数字である。これは、現代のフェリーなどの所要日数ではなく、平安時代の記録で、『延喜式』という書に記載されている。
 九六七年(康保四)に施行された『延喜式』は、平安時代の法律である律令の施行細則をまとめたもので、九〇五年(延喜五)に天皇の勅令によって編修が始められた。そこには禁中の年中行事や制度などが詳細に記されていて、日本全国に散在する神社名まで記載されている。その中の、『延喜式 巻二十四 主計上』に、日本全国から租庸調、つまりさまざまな種類の税を納めるために都にやってくる人たちの所要日数が記録されている。
 たとえば、出羽国から陸路で京都に来るのに必要な日数は四十七日で、帰路は二十四日。また、加賀国の場合は往路が十二日、帰路が六日である。往路は「税」である物資を満載した荷車などを牽きながらの行程だから日数が多く、帰路は「カラ荷」だから、所要日数は往路の半分になっている。これは出羽国や加賀国だけでなく、すべての国の往路と復路の比率がそのようになっているから、荷物を運ぶ往路というのが、よほど労力を必要としたものだったことがわかる。これは、魏使一行の「陸行」の場合にも同じことがいえるだろう。いや、魏使の場合は、『延喜式』の時代より七百年ほど昔で、道路整備がほとんど出来ていない状況だろうから、往路はもっと時間がかかったことだろう。
 本州と四国の国々は、すべて京都の朝廷に直接「租庸調」を運び込むが、九州の諸国だけは、朝廷の代官ともいうべき大宰府に運ぶことになっていた。そこから大宰府が、九州諸国のものをまとめて、京都に送る。その九州諸国の中に対馬と壱岐があって、それぞれの国から大宰府までの往復の所要日数が、「海路四日」「海路三日」と記されているのである。
 対馬から大宰府の最寄港である博多までは直線距離で百二十キロ。この距離を片道二日で航走したということは、一日あたりの航走距離は六十キロになる。これは、動力をもたない船としては、かなりのスピードといえる。また、壱岐から博多までの距離は六十キロで、片道を一日半で航走したから、一日あたりの航走距離は四十キロということになる。このスピードの差がどこからきたものかはわからない。対馬国の方が壱岐国より一・五倍のスピードの船を持っていたということだろうか。いや、そのようなことはありえない。造船技術というのは、同じ日本の国内ならすぐに伝播するから、対馬や壱岐といった小さな国の単位でその技術レベルが大きく異なることはありえない。にもかかわらず「一・五倍」の差が出るというのは、どういうことだろうか。朝廷の官吏が各国の使者に、
「今回は何日で大宰府まで来れたか? また、前回帰国したときには、何日かかったか?」
 という情報提供を求めたとき、たまたまこのときに限って、壱岐から博多までの航海が、強風や悪天候のために必要以上の時間がかかったのかもしれない。事実のほどはわからないが、はっきりといえることは、『魏志倭人伝』の時代から七世紀ものちになると、造船技術も目覚しい進歩を遂げ、風帆も活用されて、船足は飛躍的にスピードアップしていたということである。
 ともあれ、右に挙げたいろいろな記述を参考にして考えると、船の構造や航海技術の違いはあるだろうが、『魏志倭人伝』の時代の一日の航走距離は、茂在寅男の説にあるように、風帆を用いず、「二十キロ」といったところだろう。ただし、これは昼間航走だけの距離だから、夜間も航海を続けたとすると、「全日航走で四十キロ」という数字が出てくる。したがって本書では、これら二つの数値を用いることにしたい。
 このことに関連して、対馬海峡渡海に際しての矛盾点を一つ提起しておきたい。
 邪馬台国関係のいろいろな本を読むと、『魏志倭人伝』の時代の航海は、まず昼間航走だけで、夜間航走は行われなかったとされている。しかし、茂在寅男の説にあるように、もし一日の昼間航走距離が二十キロそこそこだとすると、朝鮮半島南岸から対馬まで、対馬から壱岐まで、壱岐から北九州までのそれぞれの距離は五十キロを越えているから、途中の海上で一夜を過ごさなければならない。そうなれば、船は対馬海流に流されてどんどん東に運ばれ、九州には到達しないことになる。ということは、やはり夜間航走を行ったということである。さもなければ、物理的に渡海は不可能である。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2011/08/11(木) 19:06:19|
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戦乱の邪馬台国~失われた航跡

著者:野村篤
カバーイラスト:皇なつき
発行:亥辰舎
定価:1,500円

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