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戦乱の邪馬台国~失われた航跡

魏使がカラフト経由で邪馬台国にやってきた新説「戦乱の邪馬台国」を公開。

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二 邪馬台国の謎とは

 邪馬台国の謎というのは、一言でまとめてしまえば、
「邪馬台国はどこに存在したのか?」
 ということである。ただし、その所在地は、一つの権威ある史料の中に明確に記されている。記されてはいるのだが、その記事の内容が、無数といっていい解釈の余地を含んでいるから、これが諸説乱立の根となっている。
 その史料とは、中国の紀元二二〇年から二八〇年までの五十年間の、いわゆる「三国時代」の歴史を綴った『三国志』である。二二〇年というのは、四百年にわたって中国を支配してきた漢帝国、詳しくいえば前漢と後漢にわかれているのだが、その後漢が滅亡して、魏が建国された年で、これを機に、地方勢力として魏と敵対していた蜀と呉もそれぞれに建国を果たし、たがいに後漢王朝の正統の後継者を称して抗争を繰り返した。二八〇年は、魏から帝位を譲られた晋が三国の抗争を制して天下を統一した年であり、その晋の時代に、この史書は書かれた。
 そのような複雑な時代の歴史を描いた書だから、『三国志』は、魏、蜀、呉のそれぞれの「志(記録)」にわかれていて、それら三国のうち、魏について書かれた書が『魏志』である。その中の『東夷伝』の、さらに『倭人条』、これが問題の史料である。『魏志倭人伝』と通称されている。これ以外にも、『後漢書倭伝』や『宋書倭国伝』など多くの史書にも邪馬台国に関する記事が載っているが、それらはいずれも『魏志倭人伝』をテキストとして書かれているので、その意味で、まだ三国時代の息遣いが生々しく漂う空気の中で書かれた『魏志倭人伝』が、現存する史料の中で最も信憑性が高いといっていい。
 「東夷」というのは、魏からみて東方に位置する国々のことで、それらの国情などを記録したのが『東夷伝』であり、さらにその中の日本に関する記述が『倭人条』である。そのころ、まだ「日本」という国家名称は存在せず、中国では「倭」と呼んでいた。これより四百年ほどのちの大化改新の時代、倭国が東方に位置することから、中国で大和朝廷のことを「日本」と書くようになった。なぜなら、東方といえば日(太陽)の上る国、つまり「日の本(もと)」だからである。そして奈良時代以降の日本では、自国のことを「ニホンあるいはニッポン」と音読するようになった。
 「東夷」とは「東の夷(えびす)」を意味し、「夷」とは、都から遠く離れた未開の地の民とでもいった意味で、いずれにしても魏を中心としたいわゆる中華国家の辺境に散らばる国々を指している。ちなみに、東方の国々は東夷だが、北方は北狄(ほくてき)、西方は西戎(せいじゅう)、南方は南蛮という。いずれも、多少の侮蔑の意味を込めた表現である。
 この『魏志倭人伝』に、魏の皇帝が倭の女王卑弥呼に使節を派遣したときの行程や、倭を構成する国々の様子が記されている。本来ならこの記事さえ読めば簡単に邪馬台国の場所を特定することができるはずなのに、それがそうはいかない。なぜなら、その記述の中に、先ほども述べたように、無数の解釈の余地をもつ「疑問」が散在しているからである。
 それらの「疑問」をごく大雑把にまとめてみると、魏の使節が通った道筋の「距離」と「方角」が、どうも正確ではないというところに集約される。魏使の出発地点は朝鮮半島の付け根にあった帯方郡という、魏の出先機関で、彼らはまずそこから朝鮮半島の西岸を南下し、対馬、壱岐を経て北九州に到達する。そこまででも疑問は多いのだが、最大の疑問は北九州に到達したあとの行程で、その記事の無数といっていい解釈の相違から、現在に至るまで邪馬台国の存在した場所は諸説紛々としている。
 そもそもこの論争の始まりは、江戸時代中期にさかのぼる。徳川幕府に参与していた儒学者の新井白石が、『古史通或問(こしつうわくもん)』の中で、邪馬台国は大和にあったとする「畿内説」を主張した。ほぼ同時代の国学者本居宣長は、『馭戎概言(ぎょじゅうがいげん)』において、邪馬台国の所在地が九州だとする「九州説」を説いた。これを端緒として二つの説が並立したが、その論争が熱を帯びるのは明治に入ってからのことで、一九一五年(明治四十三)に京都帝国大学の内藤湖南(一八六六~一九三四)が『卑弥呼考』の中で「畿内説」を発表し、同じ年に東京帝国大学の白鳥庫吉(一八六五~一九四二)が『倭女王卑弥呼考』の中で「九州説」を主張して以来、現在に至るまでこれら二つの説を核にして、長年にわたる論争が繰り広げられてきた。
 それらの中で、『魏志倭人伝』の解釈がどれほど多岐にわたっているかを知るために、これまで邪馬台国の存在場所として発表された場所を挙げてみよう。
 まず九州説では、福岡、博多、大宰府、筑後山門、筑後田川、筑前甘木、八女、島原、佐世保、肥後山門、阿蘇、人吉、八代、宇佐、中津、日向、鹿児島などの諸地域、畿内説では、桜井、天理、三輪山麓、大和郡山、飛鳥など大和地方の諸地域があり、さらには愛媛や松山、徳島、高知などの四国地域、そして吉備、出雲、安芸などの中国地方などが挙げられているが、これらは一例に過ぎず、実際にはもっと多くの候補地が存在するし、極端なものでは長野や山梨、千葉、さらにはジャワやスマトラ、エジプトといった海外にまで及ぶ説すらある。
 とはいうものの、現在では、まず大雑把にいって、「九州説」と「畿内説」の二つに大別されているが、それでもなお両説ともに決め手を欠いていて、いまだ結論をみていない。
  1. 2011/03/16(水) 12:09:13|
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Author:亥辰舎いしんしゃ
戦乱の邪馬台国~失われた航跡

著者:野村篤
カバーイラスト:皇なつき
発行:亥辰舎
定価:1,500円

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