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戦乱の邪馬台国~失われた航跡

魏使がカラフト経由で邪馬台国にやってきた新説「戦乱の邪馬台国」を公開。

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三 『魏志倭人伝』とその時代

 ここでは、前章で触れた『魏志倭人伝』について、いま少し詳しく述べてみたい。
 三国志の物語は、長年にわたって日本人の心を捉え続けてきた。後漢帝国の終末期にあたる紀元二世紀末から三世紀前半にかけて、曹操、劉備、孫権の三人の英雄が、漢の正統後継者の座を競って武力抗争を繰り返し、やがてはそれぞれに魏、蜀、呉の国を打ち建てた。これが、前章で述べた「三国時代」である。そこには、蜀の劉備の軍師として目覚しい活躍を果たし、いまもって圧倒的な人気を得ている諸葛亮孔明や関羽、張飛らの活躍を軸にした壮大な物語が展開するが、じつはそれらのほとんどは、『三国志演義』という小説の中で描かれた架空の出来事であって、史実はごくわずかしか書かれていない。
 『三国志演義』は、十四世紀から三百年にわたって中国を治めた明王朝の時代の羅漢中(らかんちゅう)という人が書いたとされる。彼はこの長大な小説を書くにあたって、『三国志』を種本とした。この『三国志』が、先述したように、三国時代を収拾して中国統一を果たした魏の後継国家である晋の時代に書かれた「正史」である。正史というのは、国家が編纂した正式の歴史書のことで、この史書は、陳寿(ちんじゅ)(二三三~二九七)という史家によって書かれた。
 『三国志』は、全六十五巻という大作で、それは、全巻の半数ちかい量を占める『魏志』三十巻のほかに、『蜀志』十五巻、『呉志』二十巻によって構成されている。
 陳寿は晋の時代に『三国志』を書いたが、彼の父は三国のうちの蜀の人で、その意味では、陳寿は蜀と深い関わりをもつ人だった。父は、蜀の将軍馬謖(ばしょく)に属する将校だったが、その馬謖が街亭という地で魏軍と戦ったとき、諸葛亮の命令を無視して蜀軍に敗戦をもたらした。諸葛亮は馬謖の才能を高く評価し、ゆくゆくは自分の後継者にしてもいいとまで思っていたのだが、だからといって馬謖に軍令違反の罪を問わなければ、蜀軍全体の規律の維持に支障をきたすかもしれない。そこで諸葛亮は、その才を惜しみつつも馬謖を斬刑に処した。後世に「泣いて馬謖を斬る」という諺まで伝わるほど歴史に名を残した事件だったが、このとき、馬謖の配下だった陳寿の父も、連座して髪切りの刑に処せられた。武人にとって髪を切られるというのは、最大の恥辱である。後世の批評家や文章家たちは、この事件によって陳寿が諸葛亮に深く恨みを抱き、そのために『三国志』の中で諸葛亮を不当に歪めて描いたと酷評した。それは『蜀志』の中の『諸葛亮列伝』の最後の部分で、「毎年のように軍勢を動かしながら成功とまでいかなかったのは、或いは臨機応変の軍略は亮の得手ではなかったのではあるまいか?」
 という記述に集約されているという。これは、蜀の皇帝である劉備亡きあと、二代目皇帝劉禅を補佐しながらその志を継いだ諸葛亮が、再三にわたって「北伐」と称して魏討滅の軍を興したにもかかわらず、遂に目的を達することができなかったことを指しているのだが、この批判も、中国の清時代以降は、消滅してしまったようである。陳寿はそのような姑息な人物ではなく、正史としての『三国志』を著述しただけあって、その内容は公正な視野に満ちていて、しかも鋭利である。右の『諸葛亮列伝』の内容にしても、いまではその正当性を疑う者はいない。諸葛亮を百戦百勝の軍事の天才に造り上げたのは羅漢中の小説『三国志演義』であって、実際の亮は、たしかに戦略戦術の面でも卓抜した才を発揮したものの、やはりその本領は政治において活かされたから、右の陳寿の記述に間違いはなかった。
 なぜこのようなことを書くかというと、邪馬台国研究者の中には、『魏志倭人伝』が内包する多くの疑問は、陳寿の拙劣な、あるいは曖昧な著述姿勢の結果だとする者がいるからである。彼らはいう。
「陳寿は、関係者から得た曖昧な情報を疑いもせず、そのまま採用した。だから『魏志倭人伝』の記述は間違いだらけなのだ」
 と。疑問点の多くを陳寿のせいにして、自分たちの説を少しでも有利に導こうとする。そのような現代の一部の卑小な研究者たちがあげつらうには、陳寿という歴史家はよほど誠実で不動の存在なのである。
 ただ、ここで一つ特記しなければならないことは、陳寿の記述が、ときとして簡潔に過ぎることである。『史記』や『漢書』などが、簡潔な文章の中にも、ここぞというところでは詳細なエピソードを挿入しているのに対し、『三国志』にはそのような箇所がほとんど見られない。そこで、のちの六朝時代の宋の文帝がこれを惜しんで、裴松之(はいしょうし)に指示して「注記」を書かせた。それほどに簡潔な文章だから、『魏志倭人伝』の記事にも、様々に解釈できる余地が生じているのである。
 ともあれ、右に述べたような混乱の「三国時代」に、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送る。
 邪馬台国というのは、紀元二世紀後半から三世紀にかけて実在した日本を代表する国家の名前である。なぜ「日本を代表する」といえるのかというと、それは三国時代の一角を形成する魏がそれを認めているからで、そのことも『魏志倭人伝』に記されている。
 倭、つまり日本の女王卑弥呼は、西暦二三八年(景初二)六月、魏に難升米(なしめ)らを使節として遣わして、皇帝に拝謁させた。この当時の魏は、朝鮮半島の付け根のあたりに帯方郡という出先機関を置いていたから、まずはこの帯方郡で太守の劉夏(りゅうか)が倭の使節を受け入れ、そこから警護をつけて首都洛陽に一行を送った。ただし、この最初の朝貢が行われたのは景初二年ではなく景初三年(西暦二三九)とする説が多いが、ここでは『魏志倭人伝』の記述が正しいものとして、景初二年(西暦二三八)を採った。その理由については、第二部第一章で述べる。
 倭の使節の謁見を許した当時の皇帝である斉王芳に、使節は、生口、つまり奴隷として、男四人、女六人、それに斑(まだら)文様を染めた布を献上した。この行為は、魏の皇帝に対して倭が臣従することを誓うものだから、斉王芳は大いに喜び、卑弥呼を魏に親しく従う倭の王、つまり「親魏倭王」として認め、それを証するために卑弥呼に下賜する品々を後日送り届けることを約した。これが、先述した「魏が邪馬台国を日本の代表と認めた」ということである。当時の倭には、三十ほどの国があって、それらの頂点に邪馬台国が君臨し、「邪馬台国連合」とでもいうべき大勢力を形成していた。
 二年後の西暦二四〇年(正始元)、帯方郡の太守弓遵(きゅうじゅん)は倭に使節を派遣し、一昨年に皇帝が倭の使者に約した「卑弥呼に下賜する品々」を携えて、倭を訪れさせた。その品物とは、まずは卑弥呼が「親魏倭王」であることを証するための金印紫綬、つまり紫の組みひもをつけた金印と、他に銅鏡百枚、錦、白絹、真珠などの豪華な品々である。
 三年後の二四三年(正始四)、卑弥呼は再び魏に使節を派遣し、生口と布を献上した。
 それに応えて、二年後の西暦二四五年(正始六)、新しく魏の皇帝となった少帝が、帯方郡を通じて、倭の難升米に魏の国旗ともいえる黄色い旗指物を与えた。これは、倭という国が魏に従う国であることを明らかにしたものである。
 西暦二四七年(正始八)、再び倭は魏に使節を派遣するが、このたびの目的は、魏の皇帝に対し、狗奴国との関係悪化を報告することだった。すでにこのとき、邪馬台国と狗奴国は局地的な交戦状態に入っていたが、魏は、この要請を受けて、使者として張政という者を派遣し、再び黄色い旗指物を与えて、難升米を督励した。そもそも卑弥呼が魏に使節を送って朝貢したのも、日本における強敵狗奴国との戦争に魏の支援を期待したからだったと思われるが、このたびは援軍までは派遣されなかったけれど、邪馬台国の背後に魏の存在があるという事実を黄色の旗によって誇示し、あらためて狗奴国を威嚇することができたから、まずはその目的を達したといっていい。だがこの時期、すでに卑弥呼は世を去っていた。
 『魏志倭人伝』の文面から察するに、このあたりの張政の働きは華々しい。まず彼は、邪馬台国と狗奴国の間を取り持って停戦を実現した。そのあと、卑弥呼の後継として男子の王が立ったところ、倭国は分裂抗争に陥ったから、今度はこの混乱を収めるために、新しい女王として、弱冠十三歳の卑弥呼の血族イヨを立てた。これによって、ようやく倭国の騒乱が鎮まった。イヨは、倭国のために大きな貢献を果たした張政を魏に送り返すため、使節を発した。
 以上が、『魏志倭人伝』に記載された、倭と魏との交渉のすべてである。
 これらの出来事が『三国志』のどの時期にあたるかというと、三国鼎立の原因となった赤壁の戦いが行われたのは西暦二〇八年、魏の曹操の死が二二〇年、蜀の劉備の死が二二三年、呉の孫権の死が二五二年で、『三国志』の中で最も人気の高い諸葛亮の死が二三四年である。このようにみてみると、卑弥呼が初めて魏に使節を発したのは、赤壁の戦いの三十年後、諸葛亮が亡くなってからわずか四年後のことであり、卑弥呼が死んだとされる年には、まだ呉の孫権は存命して魏と対抗していた。また、『三国志』を著した陳寿は、諸葛亮の死の前年に生まれていて、魏使が邪馬台国を訪れたのは、彼の少年時代の出来事だった。いずれにせよ、邪馬台国が魏と交渉をもった時代、中国全土は三国抗争時代の真っ只中にあったのである。
 そのような状況だから、邪馬台国が、臣従する相手として魏を選ぶとき、魏でなくとも、その南方に展開する呉という選択肢もあっただろう。にもかかわらず魏に臣従したという事実は、戦略的見地から大きく捉えてみても、魏にとって有利なことだった。西南に蜀、南に呉という強敵と戦っていた魏は、それら二国よりも武力は劣るものの、北東の背後の高句麗とも対していた。しかし、魏の東に位置する朝鮮半島は、幸いにも馬韓や辰韓、弁韓といった弱小勢力が並立して、いまのところは魏と抗争する姿勢は見せていない。しかし、もし卑弥呼が魏ではなく呉と結んだとすれば、倭は朝鮮半島に侵攻して魏の背後を衝くおそれがある。そうなれば、たとえその攻撃力が微小であったとしても、魏としては四方すべてを敵に取り囲まれ、その対応のためにはなはだしい消耗を強いられることになる。だから、倭が朝貢してきたという事実は、卑弥呼が考える以上に、魏にとって有利なことだったのである。このあたりに、卑弥呼を『親魏倭王』として優遇した理由があった。なにしろ、魏が「王」として遇したのは、倭と、西域の大月氏国だけなのである。もっとも、邪馬台国としても、魏を選ぶ確たる理由があったのだが、そのことについては、のちに詳しく述べることにする。
  1. 2011/03/17(木) 18:36:41|
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