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戦乱の邪馬台国~失われた航跡

魏使がカラフト経由で邪馬台国にやってきた新説「戦乱の邪馬台国」を公開。

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四 邪馬台国論争

 ここでは、第二章で述べた「邪馬台国の謎」が、具体的にどのような論争を巻き起こしてきたのか、また現時点ではどのような状態になっているのかについて、いま少し掘り下げてみたい。
 魏の使節が邪馬台国に行ったのは、『魏志倭人伝』の記録を見るかぎりにおいて、二回ある。一回目は西暦二四〇年(正始元)、二回目は二四五年(正始六)である。さらに二年後に張政が倭に派遣されているが、これは狗奴国との戦争という緊急事態に対処することが目的だったから、おそらく魏の使節を編成する時間を惜しんで、倭の使節船に便乗した。したがって正式の使節としては、右の二回になる。
 魏の出先機関である帯方郡を出発して海を渡り、倭国に至る道筋を、距離と方角を交えて記載したのが、右の二度のうちのどちらの使節だったのかはわからない。しかしながら、繰り返すようだが、この記述をもとにすれば、邪馬台国が存在した場所は容易に特定できるはずなのだが、ここに「距離と方角」という大きな疑問が立ちはだかっていて、そのことが現代に至るまで「邪馬台国論争」をことさら複雑にしている。
 その中味に入る前に、まずは右に述べた帯方郡から邪馬台国まで魏使が採った経路と、それぞれの距離と方角を挙げておく。

①帯方郡 ⇨(方角指定なし:海岸に従って)⇨ 韓国を経て ⇨ 倭の北岸狗邪韓国*ここまで七千余里
 ②狗邪韓国 ⇨(方角指定なし:海路千余里)⇨ 対馬国
  ③対馬国 ⇨(南:千余里、韓海を渡る)⇨ 一大国
   ④一大国 ⇨(方角指定なし:海路千余里)⇨ 末盧国
    ⑤末盧国 ⇨(東南:陸行五百里)⇨ 伊都国
     ⑥伊都国 ⇨(東南:百里)⇨ 奴国
      ⑦奴国 ⇨(東:百里)⇨ 不弥国
       ⑧不弥国 ⇨(南:水行二十日)⇨ 投馬国
        ⑨投馬国 ⇨(南:水行十日、陸行一月)⇨ 邪馬台国
                合計距離:帯方郡 ⇨(一万二千余里) ⇨ 邪馬台国

 以上が、『魏志倭人伝』に書かれた行程についての記述をまとめたものである。そして、ここに記述された通りの「距離」と「方角」を採ると、日本のどこにも行き着かない。
 まず「距離」について。
 『魏志倭人伝』によると、帯方郡から邪馬台国までの合計距離を、「一万二千余里」としている。
 そもそも帯方郡がどこにあったのか、じつはそれさえも諸説があって結論は出ていないが、話を進める必要上、本書ではまず、それらの説の中から、現在の北朝鮮の首都ピョンヤンの南五十キロの地点を設定したい。その根拠は、黄海北道鳳山郡沙里院と呼ばれるその場所の唐土城付近の古墳から、「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた、帯方郡の太守のものと思われる墓が発見されているからである。しかし、この墓碑があるからといって、ここが帯方郡の拠点だったかどうかまでは確定できないが、他のどの候補地にも決定的な物証のない現時点では、最も有力な候補地ではないかと思われる。
 中国では、何千年にわたる王朝の変遷とともに、距離を規定する尺度も変わってきた。日本においてもそれは同じだが、中国の尺度の変化は、日本より遥かに頻繁である。旺文社の『漢和辞典』によると、『三国志』の時代と、それに続く晋の時代の一里は四百三十四・一六メートルとなっている。それは、一里=三百歩という計算から導き出されたもので、その「一歩」とは一・四四七二メートルとされている。そして「一歩」は六尺、「一尺」は二十四・一二センチである。
 この換算値によって計算すると、一万二千余里は五千二百キロ余となる。そこで、実際に帯方郡、つまりピョンヤンの南五十キロを起点にして地図上で直線距離を計測してみると、たとえば邪馬台国と比定されている場所の一つである北九州の宇佐の場合には八百キロ、また、同じく比定場所の一つである奈良盆地の場合は千七百キロほどでしかない。もちろん飛行機などなかった時代のことだから、直線で行くのは不可能だが、それにしても、いくら海岸が湾曲していようと、湖沼や山岳地帯を避けて迂回しようと、とても五千二百キロには届かない。ここに大きな「距離の疑問」が立ちはだかるのである。
 そこでこれまでの研究では、「短里」というものを採用したものが多い。昔から中国では、時代によって「里」の長さが異なっていることは先に述べた。卑弥呼が登場する魏の時代には右のように約四百三十メートルだが、陳寿が『三国志』を書いた晋の時代には、それとはべつに「一里=約八十メートル」という、いわゆる「短里」が存在したという説がある。そして陳寿は、魏ではなく晋の時代に『三国志』を書いたのだから、短里を用いて記述したのだとするのである。これで換算すれば、一万二千余里は九百六十キロ余となって、北九州あたりまでの距離にほぼ相当するから、「九州説」を主張する研究者たちにとってきわめて好都合の結果になる。
 一方では、『魏志倭人伝』に書かれた距離はすべて曖昧だとして、より正確を期するため、『魏志倭人伝』に記された二地点間の距離を現代の技術で実測して、そこから一里が何メートルだったかを逆算する手法を採用する研究者も多い。それによると、一里はほぼ八十メートルから百メートルの間に収まって、右の「短里」とさほどの差はないから、結果としてはこれもまた、「九州説」を補強する考え方になっている。
 次に「方角」について。
 九州説と畿内説がそれぞれの主張を続けるなかで、とくに畿内説が強調するのが、
「『魏志倭人伝』に書かれた方角は不正確だ」
 ということである。そこに記載された方角は、どの項をみても南や東南がほとんどだから、もしそれが正しいとするなら、ひたすら九州を南下することになって、帯方郡の東南方向に位置する奈良盆地には、いつまでたっても行き着くことができない。そこで畿内説では、
「『魏志倭人伝』における南は、九州到着後は、東の誤りである」
 として、記述内容の大胆な方向転換を唱えた。ここで「九州到着後」といっているのは、少なくとも帯方郡から九州までの経路については、両説とも異論がないということである。なぜなら、「対馬」という、「疑いようのない」地名が、「九州までの経路は間違いない」という結論を導き出しているからである。
 また、ある畿内説は、「混一彊理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」というものを持ち出して、『魏志』の示す方角はけっして間違っていないと主張した。これは、一四〇二年に李氏朝鮮の権近という人が作成した東アジアの地図で、この中に載っている日本列島は、九州を北端にして南に伸び、近畿地方は九州の南方に位置している。ということは、九州からひたすら南方向に行くと奈良盆地に達することになるから、「古代の中国や朝鮮半島の人々は、日本列島の方位を間違って理解していた。だから邪馬台国は奈良盆地にあったのだ」
 と強調するのである。しかし、最近の研究によって、この地図は、製作の時点で方角を誤って記載されたことが判明した。同時代に作られた別の「混一彊理歴代国都之図」には、日本列島が正しい方位で載せられているからである。これによって、畿内説の根拠の一角が崩れたことになる。
 ちなみに、この地図に挿入された日本地図は「行基図」というものだが、この地図については、のちに本書の重要なポイントとなるので、いま少し述べてみたい。
 行基図の「行基」というのは、奈良時代の僧の名で、東大寺建立のために大きな役割を果たした行基(六六八~七四九)大僧正のことである。行基図は、その行基が作ったとされる地図である。行基は、弟子たちを従えて、仏教の教化や堤防設置、架橋などの社会事業を行うために全国を巡ったから、そのときに計測した各地の地理を一枚の地図にまとめたといわれている。ただ、行基自身が描いたとされる地図そのものは現存せず、最も古いものは、行基の死の五十六年後の八〇五年(延暦二十四)に京都の下鴨神社に納められたものとされていて、しかもその原本は現存せず、江戸時代中期にそれを書写したものだけが残っている。その「行基図」には、たとえば行基の生きた時代には存在しなかった加賀国(八二三年に設置)が記載されていることなどから、原本を書写した作者が、その時代の実情に合うよう加筆・修正を行ったものと考えられている。
 現存する多くの行基図の中で最も古いとされているのは、鎌倉時代の一三〇五年(嘉元三)に描かれたものだが、いずれにしても、行基図は室町時代以降には遠くヨーロッパにまで伝わって、彼らが日本地図を作る際の参考になっているし、江戸時代後期に伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」を作るまでは、「日本地図といえば行基図」といわれるほど、その存在はポピュラーだった。
 「方角」のことに話を戻すが、これ以外にも、たとえば「東」といえば、それは「東北から東南の間の四十五度のレンジを指す」という、方角に余裕を持たせる考え方なども多く導入されている。いずれにしても、『魏志倭人伝』の方角については、九州説は「正しい」とし、畿内説は「間違っている」として、いまもって真実は闇の中にある。
 以上のように、『魏志倭人伝』に記載された「距離」と「方角」の解釈が千差万別になっていることから、邪馬台国が存在した場所は、現在に至るまで万人が納得できる論理や根拠を伴った特定がなされていない。
 
 次に、右の「距離と方角」以外の観点で、これまで主張されてきた「両説」の根拠がどのようなものかを挙げてみることにする。
 まず「畿内説」である。その最も大きなものは、奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡の存在である。
 標高四百六十七メートルの三輪山は、ゆるやかな円錐形の独立峰の様相を呈していて、周囲から際立ったその容姿のせいか、太古の時代から自然物崇拝の対象とされ、奈良時代にはすでに、「神の鎮座する山」、つまり神名備(かんなび)山とされていた。その三輪山の北西麓に広がる一・五平方キロほどの古代集落跡が纏向遺跡で、ここは大和政権の象徴ともいえる前方後円墳の発祥の地とされている。中でも全長が二百八十メートルにおよぶ最大の「箸墓(はしはか)古墳」は、卑弥呼の墓ではないかと想定されている。なぜなら、前方後円墳の「後円」の部分の直径が、『魏志倭人伝』に記載されている卑弥呼の「円墳」の直径「百余歩」にほぼ一致するからという。「前方」の部分は、それ以後に増設されたと考えられている。また、この遺跡からは、北九州から南関東までの広範な地域で製造された土器が発見されているので、この地が当時の日本を統括する交流センターのような役割、つまり日本の中心としての位置づけにあったとする研究者が多い。つまり、ここには日本を代表する国家としての邪馬台国が存在した、と。
 ただ、箸墓古墳を取り囲む「周濠」と呼ばれる堀からは馬の輪あぶみが発見されているが、『魏志倭人伝』の記述によると、卑弥呼の時代の日本には馬がいなかったというから、箸墓古墳は卑弥呼より後代のものであるとする説も強い。
 ところが、二〇〇九年の五月に、千葉県佐倉市に拠点をもつ国立歴史民族博物館の研究グループが発表したところによると、「放射性炭素年代測定」という最新の技術によって、箸墓古墳から出土した土器に付着した穀物を測定した結果、この古墳の築造年代が西暦二四〇年から二六〇年の間だということが判明した。これは『魏志倭人伝』に記載されている卑弥呼の死の年とされる「二四七年ごろ」に合致するから、研究グループは、
「時期が一致し、卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」
 と指摘した。これによって畿内説は大いに勢いづいたが、それでも、
「放射性炭素年代測定法は万全ではない。他の方法での実証や検証を積み重ねて、最終的に年代を確定する必要がある」
 とする慎重意見も多く、なお学界全体として承認されるには至っていない。
 これを除けば、他の根拠については有力なものが少なく、かつては説得力をもっていたものの、現在ではさほど重視されていないものがほとんどである。
 たとえば、
「近畿地方には、三角縁神獣鏡と呼ばれる銅鏡が多数出土している」
 という事実である。『魏志倭人伝』によると、魏の皇帝が卑弥呼に与えたいろいろな下賜品の中に、「銅鏡百枚」というものがあった。その銅鏡は三角縁神獣鏡と呼ばれる種類のもので、それが近畿地方から数多く発見されているということは、とりもなおさず邪馬台国が畿内に存在したことを証拠立てるものではないかというのである。ところが、その後も同じ種類の銅鏡がどんどん出土され、すでに五百枚に及んでいるから、これでは、魏から下賜された「百枚」という数字を大きく上回ることになり、重大な矛盾を生むことになった。したがって現在では、これらの銅鏡は中国からもたらされたものではなく、日本国内で鋳造されたものではないかという説が一般的になっている。
 また、前述の「混一彊理歴代国都之図」の存在も一時は畿内説に有利に働いていたが、これについても既述のように、誤って製作されたものと判明しているから、有力な証拠とはならない。
 他には、『日本書紀』の中で、卑弥呼を神功皇后と同一視していたり、『隋書』には、日本の首都である大和について、
「『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。古よりいう、『楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里にして、会稽の東にあり』」
 と、大和は「古えの邪馬台国」であるといった表記がされていたりと、「畿内説」は放射性炭素年代測定の結果を除けば、すべてが文献研究の結果である。
 さらに、先に述べたように、距離については「さほどの問題はない」とし、方角については、朝鮮半島を経由して対馬、壱岐から北九州に上陸する経路は九州説と同じだが、そのあとの「南」や「東南」という方向を、記載ミスだとして、「東」に変えている。そのようにしないと、九州から大和にまで到達しないのである。
 いっぽうの「九州説」だが、これは畿内説の纏向遺跡のようにピンポイントの場所を比定しているのではなく、研究者によって九州内のさまざまな場所の比定がなされている。したがってその根拠も千差万別だが、九州説における最も大きな根拠は、やはり「短里」である。これを用いると、北九州地方一帯が「帯方郡から一万二千余里」という邪馬台国のレンジに入ることになる。
 また、この短里は、畿内説を完全に否定してしまう強力な根拠ともなっている。というのも、全行程一万二千余里のうち、北九州の各所に比定されている伊都国までが一万五百里で、残りはわずか千五百里=百二十~百五十キロしかなく、それでは到底大和にまで行けないからである。
 いまひとつ九州説の独自の解釈は、「放射説」である。これは『魏志倭人伝』の中の行程に関する表現が、伊都国を境にしてわずかに変化していることから、伊都国から先の奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国は、連続する行程上にあるのではなく、伊都国を基点にして放射状に散在しているという説で、これを採用すれば、邪馬台国は伊都国の次に位置することになって、ますます距離は短縮され、北九州のどこかに存在した可能性が高くなる。これについては、のちに詳述する。
 しかしながら、九州説の弱いところは、実際に九州のどこを探しても箸墓古墳のような巨大古墳が発見されていないことである。だとすれば、邪馬台国は九州の小さな国々の中の一つの有力な国家ということになるが、そのような小規模国家に、魏が「親魏倭王」という、いわば大月氏国並みの最恵国待遇を与えるだろうかという疑念が残るのである。
 
 いずれにせよ、これまで多数の研究者や専門家たちが提示してきた既存の邪馬台国論のすべては、それぞれの主張や結論を提示するに際して、独自の、ときにはあまりに独善的といっていいような仮説を採用している。「距離」と「方角」のことはもちろん、それ以外でも、『魏志倭人伝』に記載されている国名を、それに似通った現在の地名に当てはめたりといった、素人でさえ「これはどうかな?」と首をかしげるような際立った強引な解釈が多い。しかしそれは、先ほども述べたように、『魏志倭人伝』の記述そのものに、そのような独自の解釈をせざるをえないような余地が散在しているからで、それを断行しない限りは結論を導くことができないから、ある程度はやむをえないことだろう。ともあれ、現時点においては両説ともに決定打を欠く状況で、もはや『魏志倭人伝』などの文献史料の考察だけでは限界があるとする意見も多く、たとえば放射性炭素年代測定や、箸墓古墳などの被葬者の発掘といった、考古学的発見に今後を期待する風潮が大勢を占めつつある。
 なお、ここで述べた両説については、ほんの表面をなぞっただけでしかない。実際には各研究者の情熱を傾けた考察と記述によって、その深奥まで到達することができるのだが、本書の目的は、それらを解説することではないので、必要にして最少限にとどめた。
  1. 2011/03/22(火) 20:04:38|
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  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
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畿内説の一つに御所市秋津遺跡を加えてほしい

貴兄の従来説概観すぐれた解説である。
ぜひ畿内説の一つとして、私の奈良県御所市を加えておいていただきたい。
御所市秋津が卑弥呼の王宮の在った場所というのが私の説である。

そこが邪馬台国の王都で有るという私の説は、卑弥呼の男弟が六代孝安天皇という推論から導かれる。それは、東大寺山古墳から出土した鉄剣により証明できる。

そして、御所市玉手山には径百余歩とおぼしき古墳がある。
また現在、秋津遺跡から通常の集落とは明らかに異なる遺構が出土しつつある。
  1. 2011/03/24(木) 15:07:36 |
  2. URL |
  3. 曲学の徒 #VBhLj3MM
  4. [ 編集 ]

秋津遺跡のこと、勉強します。

 御所市秋津遺跡のことを教えて頂き、ありがとうございました。秋津遺跡の存在は知っていましたが、不勉強につき、「曲学の徒」さんのブログを拝見して初めて歴史の深さを知りました。さらに勉強するとともに、秋津遺跡を畿内説の一つに加えさせて頂きたいと思います。
  1. 2011/03/31(木) 11:33:04 |
  2. URL |
  3. 野村篤史 #I74EhAyc
  4. [ 編集 ]

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戦乱の邪馬台国~失われた航跡

著者:野村篤
カバーイラスト:皇なつき
発行:亥辰舎
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