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戦乱の邪馬台国~失われた航跡

魏使がカラフト経由で邪馬台国にやってきた新説「戦乱の邪馬台国」を公開。

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六 「北方迂回ルート」を採る理由

 前章で述べたように、たしかに北方迂回ルートを採れば、距離の点では『魏志倭人伝』の記述とほとんどぴったり一致する。しかし、そうはいっても、本当に魏使一行は、対馬海峡という最短距離を通らないで、わざわざカラフトまで行ったのだろうか。それほど遠回りしなければならない理由があったのだろうか。次に考えなければならないのは、このことである。これが解明できないかぎり、私の北方迂回ルート説は、たんに距離合わせのための「こじつけ」にすぎないことになる。
 そこで、まずは当時の中国の造船技術や航海技術がどのようなものだったのかを考えてみたい。ひょっとすると、カラフトを経由するほどの長大な航海に耐えることができなかったのではないだろうか。もっとも、すでに「海のシルクロード」のルートは定着していたから、ローマ人たちは大海を乗り切るほどの技術はもっていた。では、中国はどうだったのだろうか。
 そこで、複数の図書館の蔵書の中から、当時の中国の船に関する史料を探して調べてみたが、残念ながら、それらを見るかぎり、三国時代の魏がどのような船を持っていたのかという記録は見当たらなかった。『三国志』には、赤壁の戦いの折、曹操が長江に無数といっていい軍船を浮かべて蜀呉連合軍を攻めようとしたことが書かれている。それらのうち、曹操ら将軍以上のクラスの人々が座乗した船はかなりの大きさだったろうが、そのサイズについては詳しくは語られていない。ただ、もしその詳細がわかったとしても、これはあくまでも海上ではなく長江という大河を進む船だから、さほど参考にはならない。海の場合、河川と大きく異なるのは、絶えず波が押し寄せることである。それも、気象状況によっては十メートルを越える大波が船舶を襲う。そのような荒れ海を乗り切るためには、船の舳先から船底、船尾まで繋がる頑丈な骨格、つまり竜骨がなければならない。この竜骨こそが、舳先と船底に鋭角の突起を与えて、押し寄せる大波を切り割る役目を負い、同時に船体構造を飛躍的に強化する。要するに、竜骨をもたない船では、よほど波の静かな海でなけば安全な航行が難しいのである。この時代より四世紀ほどあとの日本の遣隋使や遣唐使が用いた船は、いずれもが竜骨をもたない大型船だったから、しばしば大波に翻弄されて難破した。唐の高僧鑑真が日本への渡海を果たすために五度も難破し、そのために失明したことは有名な事実である。この時代でさえそうだから、魏の時代の船が竜骨をもたなかったのは当然のことと考えていい。
 しかし、ここに大きなヒントがあった。福井県坂井郡春江町の井ノ向(いのむかい)遺跡で出土した銅鐸に、魏の時代のものらしい中国の三艘の船が描かれているのである。『海外視点・日本の歴史~邪馬台国と倭の五王』の中で、日本海事史学会名誉会長の石井謙治は、この図や、古墳時代の大型発掘船、あるいは『常陸国風土記』に記された大型船の寸法比などから、当時の外航船の規模を推定している。
 それによると、描かれた櫂の数から漕ぎ手を二十四人とし、全長二十五メートル、幅二・五メートル、深さ一・三メートル、喫水〇・八メートル、排水量二十四トンという数値を提示している。材料は楠の巨木をくり抜いたいわゆる「刳(く)り舟」を船底にもつ構造で、竜骨はない。楠は、巨木としては最も入手しやすい木で、しかも耐久性に優れているから、古代より船の材料として使用されてきた。ただ、太い木であることはたしかだが、幹の長さが短く、すぐに上部で枝分かれしてしまうから、幅が二・五メートルで全長が二十五メートルに達するほどの船体となると、二本以上のくり抜いた楠の幹を接合して胴体部分を造った。もっとも、よほど頑丈に接合しないと、大波の力で船体が折れてしまうが、どのような技法を用いたのかはわからない。日本の弥生時代の船の場合は「印籠継ぎ」と呼ばれる技法が用いられていたから、おそらくはこれと同様の技術が使われていたのだろう。簡単にいえばそれは、接合する双方の面に互いに凹凸をつけてはめ込む手法で、接着密度が高く、しかも外観に接着観が少なく、スッキリとして見える。接合面には、浸水を防ぐために、草や木などを潰して樹脂で固めるといったような工夫が施されただろう。それを補強するために、双方を繋いだ船底部分に、何枚かの頑丈な板を渡して固定し、接合を強化した。この部分の固定方法は不明である。
 そのようにして造られた船体部分の上部に、舷側版を取りつけて上部構造とする。推進力は櫂だけで、帆走は用いなかった。この時代にこれほど大きな船を造ることができたのかという疑問もあるが、実際に四つの部材を繋ぎ合わせた幅二・一メートル、全長二十四メートルの大型船が出土しているというから、この規模は現実的だといえる。したがって、『魏志倭人伝』の魏使が使った船は、このような竜骨をもたない大型の刳り舟だっただろう。もちろん、魏がこの種の船を使ったとすれば、倭もまた同じようなものを建造していたと推定される。
 しかし、右の古代船や遣唐使船が竜骨をもたない船だったのに対し、ヨーロッパでは、もっと以前から竜骨があったらしい。一九五四年にエジプトのクフ王のピラミッドから発掘された「太陽の船」は、紀元前二千六百年ごろのものとされるが、全長四十三メートルにおよぶこの船には、まだ竜骨はついていない。もっともこの船は、実用に供するのではなく、死の世界に行ってしまった王のために造られた埋葬品だから、実際に航海に使用された船がどのようなものだったのかは、わからない。しかし、それから一千年ほど時代が下がった紀元前千五百年のころ、エジプトのハトシェプスト女王の時代に、その商戦隊がアフリカのソマリヤまで航海しているが、このときの船はすでに竜骨をもっていたという。とすれば、それ以後のヨーロッパでは、竜骨は常識的な構造になっていたのだろう。紀元前三三八年にギリシャ人ピテアスが地中海から大西洋に出てブリタニア(現在のイギリス)やスカンジナビアを発見したときも、三国時代の百年ほど前に、ギリシャの商人ヒッパロスがアデンからインドの南端までインド洋を一気に横断してマレー半島に達したときも、当然ながら彼らの船には竜骨がついていたに違いない。だとすれば、すでに海陸ともにシルクロードが開かれていた三国時代には、中国はヨーロッパの船を参考にして竜骨を備えた船をもっていたのではないかと思いたくなるが、このあたり、記録には何も残されていないので、確たる回答はない。ただ、中国には昔から「南船北馬」という言葉があった。中国大陸の北部は馬による移動が優れ、南部は運河を使った船による移動に優れていたということだが、ひょっとしたら、三国時代のなかで、「南船」の国である呉では竜骨をもつ船が存在したかもしれない。
 しかしながら、いずれにしても後代の日本の遣唐使船が竜骨をもたなかったということは、中国にもそのような船はなかったと考えていいだろう。もし中国に存在していれば、当然ながら日本の遣唐使船もそれに倣ったはずだからである。
 次に、古代の大陸の人々が、どの経路をとって日本に来たのか、そのことについて実例を挙げて考えてみたい。
 時代は五百年ほど下がるが、唐の北方に展開していた渤海国から、日本に向けてたびたび使節が派遣された。
 渤海は六九八年の建国から九二六年の滅亡まで、現在の中国の東北地方を中心に、北朝鮮の北部からロシアの沿海州にまで及ぶ広大な領土をもっていた国で、靺鞨(まつかつ)人と呼ばれるツングース民族や高句麗人などが混成する国家だった。歴代の王たちは唐の先進の文化を導入するために律令法や礼法を学んで、優れた文化国家を築き上げた。
 その渤海は、七二七年(神亀四)に最初の日本への使節、いわゆる「渤海使」を派遣してから、およそ二百年にわたって、三十三回の使節を送った。それに応じて、日本からも十三回の答礼航海を果たしている。渤海からの最初の航海では、よほど勝手がわからなかったのか、使節一行二十四人は、おそらく北海道か北東北のどこかに到着し、蝦夷の人たちによって多数が殺され、わずか八名が朝廷に保護されたという。
 渤海使は、三十三回すべてが日本海を渡ってきた。おそらく、リマン海流に乗ってやって来たのだろう。リマン海流というのは、オホーツク海に源流を発し、沿海州に沿って南下したあと、黒竜江から流れ出る冷水に後押しされて朝鮮半島東岸を南下し、一部は隠岐や能登半島に達して、他は対馬海流と合流して東上する。だから、彼らの到着地のほとんどが、場所の詳細はわからないが、「出羽国」だった。日本の朝廷としては、外国使節の受け入れは九州の大宰府にまとめたいと思っていたから、渤海使にもたびたびそれを要請したが、彼らは応じず、ついには「航海の途中、大嵐にあって漂流した」と偽ってまで出羽に上陸したという。おそらく彼らは、渤海から朝鮮半島に南下し、対馬海流を渡るという、日本政府が要求したルートを嫌ったのだろう。彼らの採ったルートの詳細は記録されていないが、対馬を経由するよりも、日本海という大海を渡る方が安全だと考えていたふしがある。ひょっとしたら、はるか北方まで行って間宮海峡を渡るという「北方迂回ルート」を採ったかもしれない。いずれにせよ、当時の航海といえば人命にかかわる一大事業だったから、まずは安全を最優先に考えたはずである。その結果が、対馬海峡ではなく、日本の意向を無視してまで採った日本海の渡海なのである。広大な日本海を渡るに際し、多くは天候のいい真夏を選んだだろうが、それでも嵐に遭遇することはあったはずだし、げんに遭難の記録も残されている。なぜそのような経路を採ったのだろうか。
 大陸から渡ってきた船についての最も古い記録は、右に挙げた渤海使のものだが、次に、それとほぼ同じ時代の遣唐使に触れたい。
 遣唐使は二百六十年の間に十数回にわたって実施されたが、その渡海ルートは、東シナ海経由が圧倒的に多く、次に朝鮮半島経由が続く。しかし、目的地が西方にあったことから、渤海のような安全なルート選びはできず、毎回同じようなルートを採って、たびたび海難に遭遇した。
 一例として、七三二年(天平四)に実施された第九回遣唐使の多難な航海を挙げてみよう。正使は多治比広成で船団は四艘からなっていた。その中の、平群(へぐり)広成が座乗した第三船は、往路は順調だったものの、二年後の十一月に蘇州を出発した帰路では、大暴風に遭って船団は四散し、平群の第三船は南に流されて崑崙(こんろん)に漂着した。この当時、マレー半島やインドシナ半島方面の広大な地域を総称して崑崙と呼んでいた。ここで捕獲された一行は、病気にかかったり殺されたりして四名にまで減って、平群は崑崙王に会見したのちに投獄される。やがて一年後、崑崙を訪れた玄宗皇帝の使者に発見されてようやく獄を出され、長安に帰ったが、この奇遇がなければ、平群は崑崙の地で没していたことだろう。
 
 しかし、いざ長安に帰ったものの、次の日本からの遣唐使船がいつ来るのかわからず、途方に暮れていた平群に、玄宗皇帝に仕えていた阿部仲麻呂が助言を与えた。ちょうどそのとき、渤海から皇帝への使者が来ていたから、その使者に従って渤海に行き、そこから渤海使の船で日本に帰ればどうかというのである。このとき、仲麻呂はすでに帰国の意思を捨てて唐の朝廷に仕えていたから、そのあたりの事情に詳しかった。この助言を受けた平群は、渤海使とともに渤海に行き、そこから次の日本向けの船に乗ってようやく帰国することができた。阿部仲麻呂は、渤海使の採る日本海ルートが安全であることを知っていたのかもしれない。
 少し話がそれるが、遣唐使と渤海使が連携した例が、いまひとつある。七五八年(天平宝字二)、日本から唐に派遣した遣唐使が、渤海の船に乗って渤海使とともに帰国し、安史の乱の勃発を報じたのである。これは、唐の玄宗皇帝の時代に、安禄山と史思明が起こした大規模の反乱で、玄宗皇帝が寵愛した楊貴妃の悲劇が現代まで語り継がれている。遣唐使の帰国はふつう、次の遣唐使が派遣されたときに、入れ替わりにその船に乗って帰ることになっているのだが、わざわざ渤海使の船に便乗して帰国したのは、よほど安史の乱の情報を早く朝廷に伝えたかったのである。この反乱を鎮圧するため、玄宗は渤海に対して救援まで命じているから、唐帝国の屋台骨を揺るがすほどの大乱だった。当時の日本の朝廷で圧倒的な権力を握っていた藤原仲麻呂は、この情報に接して、反乱軍が日本にまで攻め寄せてくるかもしれないと思い、大宰府に対応策を立てるよう命じた。結局これは杞憂に終わったが、藤原仲麻呂は、次々に寄せられる情報から唐の国力がかなり疲弊しているものと判断し、この機会に、唐の強力な後ろ盾を失いつつある朝鮮半島の新羅を攻略しようと、渡海軍船の建造を指示している。当時の日本の対外姿勢がどのようなものであったかを示す好例である。
 以上のように、遣唐使船も渤海船も、つねに海難の危機にさらされていた。そして渤海船の方は、「朝鮮半島経由で大宰府に来るように」という日本からの再三の要請にもかかわらず、とうとう最後まで日本海ルートを採った。なぜだろうか。
 そこで私は、対馬海峡について調べてみることにした。渤海使が日本政府の要求通りのルートを採ったとすると、対馬海峡を通過することになる。にもかかわず、「漂流した」とまで主張して日本海ルートにこだわったのは、その対馬海峡に何か問題があるのではないかと思うからである。そういえば、学生時代のことになるが、友人の一人から聞いたことがある。
「対馬海流というのは非常に流れが速い。それまで幅の広かった海流が対馬や壱岐の間の狭い海峡に押し込まれるとき、あまりの狭さに海面が盛り上がるらしい。下関あたりとの海面の差は、一メートル以上もある」
 たしか、韓国に旅行するのに関釜フェリーに乗ったらどうかといった話題に興じているときのことだったと思うが、この言葉から、鳴門の渦のような激しい海を想像したことを記憶している。
 日本を取り巻く海について書かれた本を数冊読んでみた。それによると、そもそも日本の近海は、世界でも有数の「荒れ海」として知られているらしい。その代表的なものは、関東から東北にかけての太平洋岸に荒れ狂う巨大な「三角波」であり、いまひとつが、対馬海流だという。
 いわゆる黒潮というのは、赤道の北部に端を発する海流で、そのあたりでは幅が千キロ以上もあって、流速は時速二キロ弱である。それが北上するにつれて次第に幅が狭くなり、それに同期して流速も早くなる。台湾付近になると幅が五十キロほどに狭まって時速は四~五キロに上がり、さらに北上して九州の南方から太平洋に流れ込むのだが、その一部が日本海に分流して対馬海流となる。対馬島や壱岐島があるために極端に幅が狭くなった対馬海流は、ここではなんと最大時速六キロにまで増速する。時速六キロといえば、人間が早足で歩く速度だから、そのスピードで海全体が動いているのである。たしかに天候のいい日など、朝鮮半島からは対馬を見ることができるし、対馬からもまた壱岐を眺め渡すことができるから、いかにも安全な海路のように思えるが、実際にこれほどに凄まじい海流を横切るのは、三国志の時代の動力をもたない船では至難の技だった。しかも、気象庁の観測によると、対馬海峡の流速は、冬から春にかけての季節より、夏から秋にかけての方が、速い。邪馬台国研究者の全般的な意見として、魏志が日本に来たのは、波浪が小さく気候のいい五月から七月にかけての時期を選んだという傾向が強いが、もし七月や八月を選んだとするなら、魏志はわざわざ対馬海流の流速の早い季節を選んだということになっ
て、いっそう操船の困難さが顕著になったことだろう。もっとも、北方迂回ルートを採った場合にも、カラフトと北海道の間に横たわる宗谷海峡と、北海道と本州の間の津軽海峡を通過しなければならない。しかし、宗谷海峡を流れる宗谷海流も、津軽海峡を流れる津軽暖流も、いずれもその流速は二キロ弱から五キロ強だから、対馬海流よりは緩やかである。
 長年にわたって海洋学を研究した工学博士茂在寅男はその著『古代日本の航海術』の中で述べている。
「朝鮮海峡も対馬海峡も三十海里前後の幅しかないので、晴天でさえあれば目標を失わずに航行できる。むしろ、両海峡を通過して日本海に流れ込む強い対馬海流による船の横流れの方が問題になるといえる。推進力の弱かった古代船の場合、この最短距離を通って日本に到達することは困難な場合が多く、自然に流されて出雲地方付近に送り込まれるか、時によっては能登半島付近まで流されて日本に到達するという場合さえあった。晴れているかぎり、出雲の三瓶山や大山、飛騨山脈などは絶好の目標となった」
 当時の航海にとっていかに対馬海流の脅威が大きかったかを示す言葉である。
 そうだとすれば、距離ははるかに遠いが、魏使にとっては、北方迂回ルートの選択もあったはずである。なによりも安全を最優先にしたとすれば、どうしても対馬ルートの優先度は低くなる。
 『日本書紀』によると、「天日矛(あめのひぼこ)が妻を追って難波へ渡るとき、海の神が立ち塞がったから、仕方なく但馬国に入港した」
 という意味のことが書かれている。これは、日本に行こうとした天日矛の乗った船が、朝鮮半島を離れたあと、北九州を目指して進んだものの、対馬海流とそのときの悪天候によって大きく東に流され、但馬に漂着したことを意味している。これについて茂在寅男はいう。
「当時の推進力の弱い船で、対馬海峡を横断する場合には当然起こりうる事態であった」
 これらのことによって、当時の拙劣な船舶性能をもってすれば、いかに対馬海峡が危険な海域であったかがよくわかる。だから、渤海使はこの海峡の通過を敬遠したし、丸木舟が若干進化したような船しかもたない、それより五世紀も昔の魏使一行の場合なら、対馬海峡の脅威はもっと大きかっただろう。彼らが、航海の安全を期して、北方迂回ルートを採ったことは十分に考えられるのである。
 ではこの当時、実際に北方迂回ルートは使われていたのだろうか。
 先に述べたように、新野直吉は著書『古代日本と北の海みち』の中で、古代から「北の海みち」は、大陸からの駿馬の輸送に使われてきたと述べている。
 また、北海道から北東北にかけての地域には、大陸から流入してきた遺物が散在していることから、北方迂回ルートが実在したことが確認されている。そのことについて、『古代の日本海諸地域~その文化と交流』の中で、筑波大学歴史・人類学系教授をつとめた加藤晋平は、先史時代以来、日本列島に北回りで影響を与えた文化要素は非常にたくさんあり、それを証拠立てるものとして新潟県北魚沼郡川口町の荒屋遺跡から出土した非常に特徴ある「荒屋型彫器」を挙げて、
「荒屋型彫器のアジア大陸における分布をみると、いちばん西のはずれはバイカル湖から流れ出すアンガラ川の上流までです。そしてモンゴルの東部、中国東北部、特にアムール川(黒竜江)流域に近い部分と、それから沿海州にもみられ、さらに樺太、北海道、本州という分布を示しています。この一万二〇〇〇~一万三〇〇〇年前の荒屋型彫器をともなう細石器群は、巨視的にみればバイカル湖から日本列島の東北地域にかけてまったく等質の石器文化なのです」
 と述べている。また、北海道で出土する平底土器というものは、沿海州や中国東北部でしか発見されないし、縄文中期ごろの抉刃(えぐりば)の石斧と呼ばれるものは、北海道と樺太、アムール川流域にしか存在しないという。
 さらに、奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫は、北海道や北東北の遺跡から発見される土器や土器に付着した穀物などから、中国本土から日本への稲作文化の伝来ルートが、朝鮮半島から北九州に入ったルートのほかに、日本海を渡って北海道や東北に入った「北方ルート」が実在したと述べている。
 はるかな後年のことになるが、越国守(えつこくしゅ)の阿倍比羅夫は朝廷の命を受け、三回にわたり船団を率いて蝦夷討征に出たが、そのうち三回目にあたる西暦六六〇年(斉明天皇六)の遠征では、軍船二百艘を率いて北上した。このとき、北海道まで渡ったあたりの弊賂弁(へろべ)というところで粛慎(しゅくしん)と遭遇し、戦闘に入っている。粛慎というのは沿海州に存在していた勢力で、しばしば中国の歴代朝廷に朝貢した国である。この時代にはすでに粛慎に代って挹婁(ゆうろう)という国になっているが、中国や日本の史書にはその後も続いて粛慎の名で記載されている。このときの戦闘はよほど苛烈だったのか、比羅夫の部下の能登臣馬身龍(のとのおみまむたつ)が戦死したものの、なんとか粛慎を降伏させることができた。
 この「事件」からいえることは、沿海州に定住する粛慎の人々が、海を渡って北海道にいたということである。この一事をみても、大陸と日本列島との交流がいかに盛んだったかということが理解できるし、その渡海経路として北方迂回ルートを使ったことを十分に想定することができる。
 また、時代はさらに下がるが、鎌倉時代の一二九五年(永仁三)、駿河の日持(にちじ)という日蓮宗の僧が、一念発起して中国に行き、布教しようと思った。やがてそれを実行に移すのだが、そのときに日持が採った道は北方迂回ルートだった。伝説では関東を出外れた日持は北上して東北に至り、津軽海峡を渡って蝦夷地まで行った。そのあと、さらに宗谷海峡を渡ってカラフトに入り、本斗から渡海したとされている。本斗というのは日本の呼び名で、ロシアではネベリスクというが、これは北海道からカラフトに渡ってさほど遠くない地点にあって、そこから対岸の沿海州に渡海するには、直線距離で二百キロ以上ある。一人の僧が手配できる船といえば、せいぜい漁船程度だろうから、それでこの北日本海を渡るのはかなりの危険を伴っただろう。だから、日持は本斗ではなく、もっとカラフトを北上して、間宮海峡を横断したものと思われる。すでに北九州経由のルートが主流になっていた鎌倉時代に、わざわざ北方迂回ルートを使ったのは、「義経北行伝説・大陸渡海伝説」とあわせ、当時の人たちにとってこのルートがさほど奇異なものではなかったという証左である。なお、日持の北行については、面白い話が残されている。彼が東北から北海道に渡ったとき、地元の漁師たちがそれまで見たこともない魚が大量に水揚げされた。日蓮宗、つまり「法華宗の坊さん」が来たらたちまち大漁になったから、漁師たちはこの魚を「ホッケ」と呼ぶようになったという。
 いずれにせよ、北方迂回ルートはかなりの古代から使われていたルートらしい。沿海州以北の人はもちろんのこと、中国や朝鮮半島から渡来した人たちの中にも、対馬海峡を敬遠して、そのルートを選んだ人たちがいただろう。それもそのはずで、紀元前の時代の拙劣な船舶構造では、日本海という大海を横断するのは不可能にちかいことだし、対馬海流を乗り切るにも大変なリスクをともなったから、対岸が手に取るほどの近さにあるネヴェリスコイ海峡を横断することが最も安全で確実なルートだったのである。時代が下がった魏使の場合、彼らは皇帝の使者という、きわめて重要な立場にあった。もし彼らが航海の途中で遭難するようなことがあれば、卑弥呼に下賜する品々が海底に沈んでしまうのはもちろんのこと、「親魏倭王」の金印までが失われることになる。そうなれば、世界を制する権力の象徴である皇帝の権威が海没してしまうようなものだから、そのような大失態を邪馬台国に見せることは断じて避けなければならない。だから、魏使一行は、危険をともなう対馬海峡を渡らなかった。念には念を入れて、長大な距離を覚悟してまで安全な北方迂回ルートを採ったと思うのである。
  1. 2011/04/01(金) 12:50:43|
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著者:野村篤
カバーイラスト:皇なつき
発行:亥辰舎
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